これも今は昔、
青蓮院の座主のもとへ、鳥羽天皇の皇子、七宮がお越しになった折のこと。
御退屈を紛らわそうと、若い僧網や有職といった役付きの僧侶たちが、
庚申の宵の宴会を開いている折、ふと、
憎たらしい顔をした、給仕の上童(うえわらわ)が、
瓶子の片付けをしているのを見て、ある僧侶ひそかに、
上わらわは、大童子にも劣りたり
と連歌にして言った。
人々が続きをと、しばらく考えていると、居合わせた仲胤僧都が、
「うむ、この胤はもう続きができたぞ」
と言うので、若い僧侶たちが、どのようにと、見守っていると、僧都は、
祇園の御会(ごえ)を待つばかりなり
と続けた。
これを聞いた一同、
「これは、どうやって付けたのか」
とひそかに話し合っているので、僧都は、
「やあ、汝ら。この程度の連歌にも付けられぬと申すが、わしは付けたぞ」
と言ったので、一同、同時にハハと、どよめき笑ったという。
原文
仲胤僧都連歌の事
これも今は昔、青蓮院(しゃうれんゐん)の座主のもとへ、七宮渡らせ給ひたりければ、御つれづれ慰め参らせんとて、若き僧網(そうがう)、有職(いうそく)など、庚申(かうしん)して遊びけるに、上童(うへわらは)のいと憎さげなるが、瓶子(へいじ)取などしありきけるを、ある僧忍びやか に、
うへわらは大童子にも劣りたり
と連歌にしたりけるを、人々暫し案ずる程に、仲胤僧都、その座にありけるが、「やや、胤(いん)、早うつきたり」といひければ、若き僧たち、いかにと、顔をまもり合ひ侍りけるに、仲胤は、
祇園の御会(ごゑ)を待つばかりなり
とつけたりけり。
これをおのおの、「この連歌はいかにつきたるぞ」と、忍びやかに言ひ合ひけるを、仲胤聞きて、「やや、わたう、連歌だにつかぬとつきたるぞかし」といひたりければ、これを聞き伝えたる者ども、一度にはつと、とよみ笑ひけりとか。
適当訳者の呟き
また出た仲胤僧都。。。何が最後おかしかったのか、正直なところ、よく分りません。
歌の意味は、下に書いています。
仲胤僧都
ちゅういんそうず。
平安末期の高僧。世代的には、平清盛の父親と同じくらいだと思います。
宇治拾遺物語では、これがたぶん3度目の登場で、ざっくり言うと、水戸黄門とか、大久保彦左衛門的存在。
顔は醜かったようです。性格もひどいですね。
巻五 (80)仲胤僧都、地主権現説法の事
巻一 (2)丹波国篠村、平茸のこと
青蓮院の座主
京都にある、天台宗の三門跡寺院(青蓮院、三千院、妙法院)のひとつ。
門主は、明治になるまで、皇族とか五摂家の子弟に限定されるなど、立派なところです。
もとは、「青蓮坊」という、そこそこの僧坊でしたが、12代行玄大僧正(藤原師実の子)のころに鳥羽天皇が帰依、この話に出てくる、七宮さまを弟子にしました。七宮は、後に比叡山の座主になります。
七宮
鳥羽天皇の第七皇子、覚快法親王。
これは、というお話もありませんが、普通に立派な高僧でいらしたようです。
庚申
こうじん。庚申の日のパーティ。
明治のころまでは、あちこちで見られた風習だそうです。
人間の中には「三尸(さんし)の虫」というのがいて、それが庚申の夜、人間が寝静まった後で閻魔様のもとに行き、その人の悪事を告げるのだそうです。
ゆえに、この庚申の夜は夜通し飲み明かして、三尸の虫が出かけられないようにしよう! と、まことに人間らしい夜があったのです。
上童
うえわらわ。
殿上にて給仕する、子供のこと。成人した後、優秀な上童は、蔵人とかの出世コースに乗りました。
大童子
おおわらわ。坊さんたちの従者。
基本的には、こちらはただの小物とか、小姓という意味で、格好良くとも、それほど出世は見込めません。
連歌
五七五の発句に、七七を別の人が続けるもの。最初のを発句、続けるものを「挙句」といいます。困った挙句、とかの語源ですね。
御会
ごえ。祇園会。要するに今でもつづく祇園祭のことです。
で、連歌の意味
何だか意味がわかりませんが、五位(ごい)と、御会(ごえ)をかけた駄洒落のようです。
「殿上人」と呼ばれるのは、五位以上で、上童としては、出世して五位以上になることを望んでいます。
が、この宴会で給仕する上童は、とても出世できそうにない、憎たらしい子供だったので、
この子供、大童子より情けない
それを、仲胤僧都が続けて、
祇園祭で五位にしてもらうのを願うばかり
神頼みしろよと言ったのでしょうか。何にしても、ひどい悪口の歌です。
……とりあえず、分りにくいです。
[2回]
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