(つづき)
さて、当の宮様は、寝殿の母屋に伏していられた。
まことに苦しげなお声が、時折、御簾越しに聞こえてくる。
和尚が、かすかにその声を聞きながら声高く加持したから、
なるほどこの声には不動明王も確かに現れるだろうと、
御前に集まっていた人々は身の毛もよだつ思い。
と、少しするうち、宮が紅の着物を二重にかぶったお姿のまま、
鞠のように御簾の中から転がり出て、和尚の前の簀の子へ身を投げ出された。
居合わせた人々は、
「何という見苦しい真似を。早く中へお戻しして。和尚も中へお進みください」
というが、和尚は、
「わしの如き片輪の身が、どうして階段をのぼって中へ参れましょうや」
と答えて、決して中へは進まない。
最初に内へ進ませなかったことに憤然とする和尚は、さらに、
すのこの上で、出てきた宮を四五尺も持ち上げるなり、叩いたものだから、
人々、たまげて御几帳をばたばたと差し出し、宮のお姿を包み隠し、
中門を閉ざして人々を追い払ったが、すでに大勢に見られている。
そうして和尚は、四五回も宮様を撲ち叩いては、内の方へ投げ込み、祈り、
さらに投げては祈って、最終的に、もとのように宮を奥まで投げ込んでのけた後、
退去したのだった。
「しばらくお待ちくだされ」
と人が留めようとしたが、
「長く立っていたので、腰が痛い」
と、耳にも入れずに退散してしまった。
で、当の宮様。
御簾の中へ投げ込まれると、物の怪が退散して、御心地さわやかになられた。
それで相応和尚の験徳はあらたかである、僧都に任ずべしと帝からの宣下があったが、
「このような片輪者が、どうして僧綱になれましょうや」
と、断ってしまった。
その後も招かれたが、
「都は人をいやしくする場所である」
といって、決して参ろうとはしなかったという。
原文
相応和尚都卒天にのぼる事・染殿の后祈たてまつる事(つづき)
宮は寝殿の母屋にふし給。 いとくるしげなる御声、時々、御簾にほかに聞ゆ。和尚、纔(わづか)に其声をきゝて、高声に加持したてまつる。その声、明王も現じ給ぬと、御前に候人々、 身の毛よだちておぼゆ。しばしあれば、宮、紅の御衣二斗(ふたつばかり)に押しつゝまれて、鞠のごとく簾中よりころび出させ給ふて、和尚の前の簀子になげ 置き奉る。人々さわぎて「いと見ぐるし。内へいれたてまつりて、和尚も御前に候へ」といへども、和尚、「かゝるかたゐの身にて候へば、 いかでか、まかりのぼるべき」とて、更にのぼらず。はじめ、めし上げられざりしを、やすからず、いきどほり思て、たゞ簀子にて、宮を四五尺あげて打奉る。 人々、しわびて、御几帳どもをさしいだして、たてかくし、中門をさして、人をはらへども、きはめて顯露(けんろ)なり。四五度ばかり、打たてまつりて、な げ入なげ入、祈ければ、もとのごとく、内へなげいれつ。其後、和尚まかりいづ。「しばし候へ」と、とゞむれども、「ひさしく立ちて、腰いたく候」とて、耳 にも聞きいれずし ていでぬ。
宮はなげいれられて後、御物のけさめて、御心地さはやかになり給ぬ。験徳あらたなりとて、僧都に任ずべきよし、 宣下せらるれども、「かやうのかたゐは、何條僧坑になるべき」とて、返し奉る。その後も、めされけれど、「京は、人をいやしうする所な り」とて、さらに参らざらけるとぞ。
適当訳者の呟き
お后様が撲たれるさまを人に見せまいと、あたふたする人々の様子が好きです。
相応和尚
余談ですが、最澄=伝教大師、円仁=慈覚大師という諡号は、この相応さんが奏請したもののようです。皇室の信任も厚いですし、さすがにこの話は誇張が効いているかと思われます。
ところで
「天台南山無動寺建立和尚伝」という本などに、相応和尚の伝説は幾つも載っています。
この宮様の病気祈祷については、病気になったのは宮様ではなく右大臣藤原良相の娘、西三条女御だとしています。
で、招かれた相応は、年も若く身なりも汚いので、居並ぶ高僧名僧から下がったところで加持祈禱していたところ、悪霊を捕縛。これを見て名僧たちが「わしの力だ」「わしの力だ」と騒ぐうち、悪霊(に取り憑かれた女御)が相応の目の前へ跳んできて踊り始めた。で、そのうち悪霊は、相応の命令に従ってまた奥へ引っ込んだ。相応すげえ――というお話。
ちなみに同じ本に、晩年の相応和尚が、天狗に悩まされる染殿后(この話の宮様)のもとへ招かれ、頑張って加持祈禱する――という話も載っているようです。
というわけで宇治拾遺は、この2つの話を混ぜ合わせた感じかもしれません。
[5回]
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