今は昔、天智天皇の御子に、大友皇子という人があった。
太政大臣として、政治を行っていたが、心の中では、
「今の帝がお亡くなりになった後、次の帝には、わしがなろう」
とお考えになっていた。
その当時、清見原天皇こと天武天皇は、皇太子でいられたが、
大友皇子の心中をお察しなると、
「皇子は、今の世の国政を為し、世評も威勢も、盛んである。
わたしが皇太子でいては、勢力も足りず、身の危険にもつながりかねない」
と怖れられ、帝が病の床につかれるとすぐに、
「吉野山の奥へ入り、法師になります」
と言って、山ごもりをされた。
一方、その時ある者が大友皇子に申し上げたのは、
「皇太子を吉野山へ籠らせるのは、虎に羽をつけて野に放つようなもの。
殿下と同じ宮殿へ閉じ込めてこそ、お心のままに出来るではありませんか」
これを聞き、なるほどと頷いた大友皇子。
軍勢を調えると、皇太子を迎えに行くような恰好で、実は殺してしまおうとした。
この大友皇子の妻は、大海人皇子の娘で、
これからまさに父親が殺されようとしているのを悲しみ、
「どうにかして、このことを告げなければ」
と思ったが、どうすることもできないので、
包み焼きにした鮒の腹の中へ小さく手紙を書いたものを押し込み、
それを父のもとへ届けさせた。
この密書を受け取った大海人皇子。
それでなくても不安を覚えていた折であったから、
「やはりか」
と、急いで下人の狩衣や袴を着込み、わら沓をはいて、
吉野宮の人間にさえ知られないうち、ただ一人で山を超えて北を目指された。
とはいえ、道もご存じない。
山の中をさまよい、五日六日もかかって、山城国の田原というところへ到着された。
そこの里人は、現れた太子の姿にを見て、なぜか人品が貴く見えるというので、
高坏に入れて、焼き栗、茹で栗を進呈した。
この二つの色をした栗を見た太子は、
「我が思うところが叶った暁には、芽を出し、木になれ」
と、そこの崖の下へ埋めたのだった。
里人はこれは何か違うものだと思うから、目印を地面へ挿しておいた。
さて、田原の地を出た太子。
今度は志摩国へと、山沿いに伝って出た。
そしてそこの国の者が不思議に思って聞くので、
「道に迷った者だが、喉がかわいた。水を飲ませてくれ」
と仰せになる。
里人が大きな釣瓶へ水を汲んで届けたので、太子は喜んで、
「おまえの一族を、この国の太守にしてやろう」
と言い残し、今度は美濃国へと渡られるのだった。
(つづく)
原文
清見原天皇、与大友皇子合戦事
今は昔、天智天皇の御子に、大友皇子といふ人ありけり。太政大臣に成て、世の政を行てなんありける。心の中に、「御門(みかど)失給なば、次の御門には、我ならん」と思給けり。清見原(きよみはら)天皇、その時は春宮(とうぐう)にておはしましけるが、此気色(けしき)を知らせ給ければ、「大友皇子は、時の政をし、世のおぼえも威勢も猛也。我は春宮にてあれば、勢も及べからず。あやまたれなん」と、おそりおぼ して、御門、病つき給則、「吉野山の奥に入りて、法師になりぬ」といひて、籠り給ぬ。
其時、大友皇子に人申けるは、「春宮を吉野山にこめつるは、虎に羽をつけて、野に放ものなり。同(おなじ)宮に据へてこそ、心のまゝにせめ」と申ければ、げにもとおぼして、軍(いくさ)をとゝのへて、迎奉るやうにして、殺し奉んとはかり給ふ。
此大友皇子の妻にては、春宮の御女ましましければ、父の殺され給はん事をかなしみ給て、「いかで、此事告申さん」とおぼしけれど、すべきやうなか りけるに、思わび給て、鮒(ふな)のつゝみ焼の有ける腹に、小さく文を書きて、をし入て奉り給へり。
春宮、これを御覧じて、さらでだにおそれおぼしける事なれば、「さればこそ」とて、いそぎ下種(げす)の狩衣、袴を着給て、藁沓をはきて、宮の人にも知られず、只一人、山を越て、北ざまにおはしける程に、山城国田原(たはら)といふ所へ、道も知り給はねば、五六日にぞ、たどるたどるおはしつきにける。その里人、あやしくけはひのけだかくおぼえければ、高杯に栗を焼、又ゆでなどして参らせたり。その二色の栗 を、「思ふ事かなふべくは、生ひ出でて、木になれ」とて、片山のそへにうづみ給ぬ。里人、これを見て、あたしがりて、しるしをさして置きつ。
そこを出で給て、志摩国ざまへ、山に添て出で給ぬ。その国の人、あやしがりて問奉れば、「道に迷たる人なり。喉かはきたり。 水飲ませよと仰られければ、大なるつるべに、水を汲て参らせたりければ、喜て仰られけるは、「汝は族に此国の守とはなさん」とて、 美濃国へおはしぬ。
適当役者の呟き
さあ、宇治拾遺物語の最終巻、はじまり!
最終巻の幕開けにふさわしいような、勇敢な天皇様のお話ですね。壬申の乱。
つづきますー。
清見原天皇
第40代の天武天皇、大海人皇子。有名な、壬申の乱の覇者です。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位されたので、清見原の天皇さまとも言うのですね。
田原の焼き栗、茹で栗
この話を受けて、この場所は後に、御栗栖(みくるす)という地名で呼ばれるようになったそうです。
京都の南東、宇治田原町に、今も
御栗栖(みくるす)神社というのがあり、観光名所になっていますが、神社としての創建は、壬申の乱からだいぶ後のことみたいです。
[8回]
PR