今は昔、胡国というのは、唐より遙かに北にあると聞こえているが、
「我国の陸奥から、陸続きになっているらしい」
と、九州にいる宗任(むねとう)法師というのが語っていた。
この宗任法師の父は、安倍頼時という蝦夷、奥州の荒くれ者だった。
あるとき、頼時が朝廷に従わないと、都から軍勢が攻め寄せようとしていると聞き、
「いにしえから今に至るまで、都の朝廷へ勝ちを収めた者はおらぬ。
わしにやましい所は無いと思うのに、ひたすら攻めかかられては、疑いを晴らす折も無い。
ならば、この奥地からさらに北に見渡される地があるゆえ、
そこへ渡り、様子を見て、これならば居住できると思えば、
わしに従うだけの者をみな率いて、そこを越えて住もうではないか」
と、まずは、舟を一艘用意した。
それに乗り込んだのは、頼時をはじめ、厨川(くりやがわ)の二郎、鳥海の三郎ほか、
身内ともいえる郎党たち二十名ほどで、
食物や酒などを多く積み込み、舟を出してしばらく行くと海峡へ来たので、そこを越えた。
見渡す限りの原に、葦が繁っている。
大きな河口になっているところを見つけたので、そこへ舟を差し入れ、
「人が見えるか」
と見回すが、ひと気はない。
「陸に上っても良い場所はあるか」
と見たが、一面の葦原で、道として踏み固めたところもない。
それで、
「人の住むような場所はあるだろうか」
とさらに川をのぼってゆくと、七日ばかりも上流へ向う間、
ただひたすら同じような景色が続くので、
「何ともこれでは仕方ない」
と、さらに二十日ほども遡って行くが、やはり人の気配は無かった。
そうして、三十日ほどさかのぼった時のこと。
ふと、地面が響くようにしたので、何事かと恐ろしくなり、
葦の中へ隠れて、地響きのする方をのぞき見ていると、
胡人という、絵に描かれたような姿をした連中が、
赤いもので髪を結び、馬に乗って、出てきたのである。
「あれは何という者だ」
と見ていると、さらに連中は続いて、数知れぬほど出てくる。
やがて胡人どもは、河原の岸に集り、聞いたこともない言葉を言い合って、
川にばらばらと入って川を渡って行くのだが、それが千騎ほどもあろうかと見えた。
かれらの足音が地響きの正体で、遙か彼方から聞こえてきたのだった。
馬の無い徒歩の者は、馬に乗った者の傍に、身体を引きつけ、引きつけして渡っているから、
なるほど、あそこが徒歩で渡れるところかと見えた。
川は、三十日もかけて上流へ来て、一カ所も浅瀬が無かった。
それがようやく、人が渡れる浅瀬があったと思うから、
連中が行き過ぎてから舟を近づけて確かめると、
やはりそこも、ほかと同じように、底も見えないほどの淵なのであった。
連中は馬筏をつくって、泳ぎ渡る横を、徒歩の連中も取り付いて渡ったのである。
こうなると、これ以上、上流へ向うというのも途方もないように思われ、
恐ろしく、その地点で、頼時たちは引き返すしかなかった。
その後いくばくもなく、頼時は亡くなった。
……このように、胡国と日本の東の奥の地は、陸続きになっているということだ。
原文
頼時が胡人見たる事
今は昔、胡国(ここく)といふは、唐よりも遙に北と聞くを、「陸奥(みちのくに)の地に続きたるにやあらん」とて、宗任(むねたふ)法師とて筑紫にありしが、語り侍りけるなり。
この宗任が父は頼時とて、陸奥の夷(えびす)にて、おほやけに随ひ奉らずとて、攻めんとせられける程に、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過たずと思へども、責をのみ蒙れば、晴くべき方なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて、有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随ふ人の限を、みな率て渡して住まん」といひて、まづ舟一つを整へて、それに乗りて行きたりける人々、頼時、廚川(くりやがは)の二郎、鳥海の三郎、さてはまた、睦(むつ)ましき郎等ども廿人ばかり、食物、酒など多く入れて、舟を出してければ、いくばくも走らぬ程に、見渡しなりければ、渡りけり。
左右は遙なる葦原(あしはら)ぞありける。大なる川の湊を見つけて、その湊にさし入れにけり。「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。「陸(くが)に上りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上りざまに、七日まで上りにけり。それがただ同じやうなりければ、「あさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上りけれども、人のけはひもせざりけり。
三十日ばかり上りけるに、地の響くやうにしければ、いかなる事のあるにかと恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方を覗きて見ければ、胡人とて、絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結ひたるが、馬に乗り連れて、うち出でたり。「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出で来にけり。
川原のはたに集り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入りて渡りける程に、千騎ばかりやあらんとぞ見えわたる。これが足音の響にて、遙に聞えけるなりけり。徒(かち)の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、ただ徒渡(かちわたり)する所なめりと見けり。三十日ばかり上りつるに、一所も瀬なかりしに川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれと見て、人過ぎて後にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。馬筏(うまいかだ)を作りて泳がせけるに、徒人(かちびと)はそれに取りつきて渡りけるなるべし。
なほ上るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。さていくばくもなくてぞ、頼時は失せにける。されば胡国と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。
適当訳者の呟き:
アイヌとか、北方騎馬民族に関する貴重な記録ですね。
宗任法師
安倍宗任。安倍頼時の息子で、史実的にも、前九年の役で安倍頼時が降伏した後、京都に連行され、そこから四国、後に九州博多へ配流されています。
頼時
安倍頼時。奥州の俘囚長。前九年の役で、源頼義に負けました。
前九年の役
ごくおおざっぱな流れ。。。
1.安倍頼時、奥州の俘囚長として威張り散らし、都へ年貢を届けない
2.怒った朝廷、陸奥守藤原登任を派遣するが、頼時に蹴散らされて更迭
3.それで新たな陸奥守として、源頼義が奥州へ。
4.大戦争になるかと思いきや、朝廷の方で特赦。安倍頼時もゆるされて、何のことはない。
5.奥州へ来た源頼義。安倍頼時もご機嫌を取り、平和のうちに任期終了。
6.ところが頼義の帰り際、いきなり部下が、安倍頼時の一派に襲われる。
7.頼義激怒。安倍頼時に、犯人を差し出せと言うが、頼時は知らねえよと、拒否。
8.ようやく、源頼義VS安倍頼時。 戦局は一進一退。
9.源頼義、津軽の族長へ協力を要請。これで安倍頼時を挟み撃ち。頼時戦死。
10.安倍さん一族は、息子の貞任が跡継ぎ。勢い衰えず、むしろ源頼義が負けそう。
11.困り果てた源頼義、秋田の清原武貞に土下座する勢いで援護を求める。
12.源氏+清原勢、みごとに安倍貞任を撃破。貞任の弟・宗任は捕虜になり、都へ連行される。
……長いお話ですね。
これを見ると、この宇治拾遺の話は、差し込むなら、8とか9の頃だと思われます。
この話は、頼時が、胡人あるいは蝦夷(アイヌ)へ援軍を求めに行った時の記録では、という説もありました。
ちなみに
11で颯爽と搭乗する清原武貞さんの養子が、平泉の金色堂なんかで有名な、奥州藤原氏の祖先、藤原基衡になります。
養子とはいえ基衡さんの父親は、安倍貞任に従っていたため敗北。清原武貞にぶっ殺されてるので、まー、ぐちゃぐちゃですわね。。。
[2回]
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