これも今は昔、
「月の大将、星をおかす」
と、天文博士が勘文、答申書を奉った。
これに基づき、
「近衛大将は、厳重に身を慎むべし」
と命令が下ったので、小野宮右大将は、自分でもさまざまな祈祷をし、
また春日大社、山階寺などにも入念に祈祷させた。
さて、その時分の左大将は、枇杷左大将・藤原仲平という人で、
祈祷の師は、東大寺の法蔵僧都であった。
僧都は、定めし自分のところへも祈祷のことを言ってくるだろうと思っていたが、
何も連絡が来ないので、不安になり、自分から都へのぼって、
枇杷左大将の屋敷を訪れた。
応対した左大将が、
「僧都は、どうして都へおいでになったのですか」
と尋ねると、法蔵僧都は、
「奈良におって聞けば、左右の大将はお慎みあるべしと天文博士が奏上した由。
小野宮の右大将の方は、すでに春日大社や山城寺へ、さまざまな祈祷をさせているので、
枇杷の左大将、あなた様におかれても、定めし祈祷を始めていると存じておりましたが、
人に聞く限り、そのようなことは無いと、みなが申すので、
どうしたことかと不安になり、こうして伺った次第。
ご祈祷のこと、始めた方がよろしいと存じますが、いかがですか」
そんなふうに言うと、左大将は、
「仰るとおり。しかし、『大将は慎むべし』と言われて、私まで慎んでしまっては、
すでに祈祷をしている右大将に悪いと思うのです。
小野宮の右大将は、才能もあり、年も若い。これから長く、朝廷にお仕えすべき人ですが、
わたくしなどは、するべきこともない、年も老いた身。
どうなろうと、何ほどのこともないと思えば、祈らなくても良いと思うのです」
その答えを聞いた僧都は、ほろほろと泣き出し、
「百万のご祈祷にも勝るでしょう。
そのようにやさしいお心であれば、決して、恐ろしいようなことは起きません」
と、退出するのだった。
その後枇杷左大将は、本当に何事もなく、大臣にまで出世し、
七十過ぎまで健在であったという。
原文
大将つつしみの事
これも今は昔、「月の大将星をおかす」といふ勘文(かんもん)を奉れり。よりて、「近衛大将重く慎み給ふべし」とて、小野宮右大将はさまざまの御祈(いのり)どもありて、春日社(かすがのやしろ)、山階寺などにも御祈あまたせらる。
その時の左大将は、枇杷左大将(びはのさだいしやう)仲平と申す人にてぞおはしける。東大寺の法蔵僧都は、この左大将の御祈の師なり。定めて御祈の事ありなんと待つに、音もし給はねば、おぼつかなきに京に上りて、枇杷殿に参りぬ。殿あひ給ひて、「何事にて上られたるぞ」とのたまへば、僧都申しけるやう、「奈良にて承れば、左右大将慎み給ふべしと、天文博士勘(かんが)へ申したりとて、右大将殿は、春日社、山階寺などに御祈さまざまに候へば、殿よりも、定めて候ひなんと思ひ給へて、案内つかうまつるに、『さる事も承らず』と、皆申し候へば、おぼつかなく思ひ給へて、参り候ひつるなり。なほ御祈候はんこそよく候はめ」と申しければ、左大将のたまふやう、「もとも然るべき事なり。されどおのが思ふやうは、大将の慎むべしと申すなるに、おのれも慎まば、右大将のために悪しうもこそあれ。かの大将は、才(ざえ)もかしこくいますかり。年も若し。長くおほやけにつかうまつるべき人なり。おのれにおきては、させる事もなし。年も老いたり。いかにもなれ、何条事かあらんと思へば、祈らぬなり」とのたまひければ、僧都ほろほろとうち泣きて、「百万の御祈にまさるらん。この御心の定(ぢやう)にては、ことの恐り更に候はじ」といひてまかでぬ。されば実に事なくて、大臣になりて、七十余までなんおはしける。
適当訳者の呟き:
若者を思いやる老人のお話ですね。
小野宮右大将:
藤原実頼(900-970年)。
小野宮流は、藤原北家の嫡流ですが、道長に至る九条流に勢い負けてしまいました。
でも、名門としての格式とプライド、財力、そして才能は平安貴族随一だったと思われます。
ちなみに実頼の孫で、自分の養子とした「小野宮右大臣」こと、藤原実資は、
巻七 (97)小野宮大饗の事、西宮殿・富子路大臣大饗の事
巻十 (121)蔵人頓死のこと
にも出てきまして、いずれもかっこいい貴族として描かれています。
※宇治拾遺は小野宮びいきという印象があります。
枇杷左大将:
藤原仲平(875-945年)。摂政関白・藤原基経の三男。
左京一条にある枇杷第を所有していたので、枇杷の大臣とか呼ばれたようです。
小野宮の右大将・藤原実頼は、この仲平さんの甥。弟(忠平)の長男です。
藤原道長からすると、曾祖父の弟に当ります。
法蔵僧都:
藤原氏出身の、東大寺の高僧(905-969年)。
日本における宿曜道の祖ということで、陰陽道にも詳しかった模様。
されば実に事なくて、大臣になりて:
小野宮の右大将も、枇杷左大将も、二人とも大臣にまで昇進して、長生きしてます。
[4回]
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