これも今は昔、土佐判官代通清(みちきよ)という者があった。
歌をよく読み、源氏物語、狭衣物語などを慕って、
花の下や月の前など、風雅な場所を歩き回っていた。
さてこういう粋人なので、ある時、後徳大寺左大臣から、
「大内の桜を見ようと思うゆえ、必ず参れ」
と誘われた。
通清は、これはめでたいことになったと思い、当日、いそいそと破れ車に乗って行くと、
あとから牛車が二三台続いて、人が来るから、
これは間違いなく、左大臣どのが来ているのだと思い、牛車の後ろの簾をかかげて、
「遅い遅い。さっさとお越しなさいよ」
と、扇を開いて招いた。
だが、これは関白殿のお出かけであった。
通清ごときが招くものだから、供の随身は馬を走らせ、駆け寄ると、
そのまま通清の牛車の簾を切り落としてしまった。
その時になって気づいた通清は慌てふためき、
前から転げ落ちて烏帽子まで落としてしまって、まことに情けない次第。
風流人というのは、いくらか頭がおかしいのかもしれない。
原文
土佐判官代通清、人違シテ関白殿ニ奉合事
これも今は昔、土佐判官代通清といふもの有けり。歌をよみ、源氏、狭衣などをうかべ、花の下、月の前とすきありきけり。かゝるすき物なれば、後徳 大寺左大臣、「大内の花見んずるに、かならず」いざなはれければ、通清、目出き事にあひたりと思て、やがて破車に乗りて行程に、あとより車二三ばかりして人の来れば、疑ひなき此左大臣のおはすると思て、尻の簾をかきあげて、「あなうたて、あなうたて。とくとくおはせ」と扉を開て招きけり。はやう、関白殿の物へおはしますなりけり。招くを見て、御供の随身、馬を走らせて、かけ寄せて、車の尻の簾をかりおとしてけり。其時、通清、あはて騒ぎで、前よりまろび落ちける程に、烏帽子落にけり。いといと不便なりけりとか。
すきぬる物は、すこしおこにもありけるにや。
適当訳者の呟き
短くて「分りにくい」ので、教科書や試験によく出てくるようです。
土佐判官代通清
不明ですが、判官代というのは、国衙領・荘園の現地にあって、土地の管理・年貢の徴収などをつかさどった職のこと――だそうですので、要するに地方役人だと思われます。
あるいは、判官代は、上皇とか女院にお仕えする役人で、帝にお仕えする役人「判官」と区別するため、「代」を付けた、という説明もありましたが、土佐、と言っているので、地方役人もしくは、元地方役人かと。
いずれにしても、関白殿に、「早く来いよ」なんて言える身分じゃありません。
源氏、狭衣
源氏物語、狭衣物語。平安末~鎌倉時代で、すでに、こういった話を読んでいるのが風流人の証拠、という認識があったということで、興味深いです。
後徳大寺左大臣
徳大寺実定(さねさだ)。祖父の徳大寺実能さんが、「徳大寺左大臣」として有名だったので、「後」が付いている模様。
源頼朝と朝廷とのつなぎ役として働いていた人のようです。
大内の桜
京都仁和寺の桜。平安時代から、桜の名所だったようです。
ちなみに仁和寺の住所は、「京都市右京区御室大内33」。
あなうたて、あなうたて
「うたてし」というのは、情けないとか、嫌だとか、ガッカリだとか。
「誘っておいて遅れてくるなんてひどいよ、ひどいよ」というような解釈になるかと思われます。
関白殿
藤原基通だと注釈に書いてありました。
源平騒乱のまっただ中の、摂政・関白。当然、従者は荒っぽい奴らが揃っていると思われます。
烏帽子
身だしなみ、というより「いつもかぶるのが常識」なので、落とすと相当かっこ悪いです。
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