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			<title>宇治拾遺物語現代語訳ブログ</title>
			<description>宇治拾遺物語の現代語訳を、
せっせと載せて行こうとするブログです。</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2005-2008 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.</copyright>

		<item>
			<title>巻十一　（１３２）則光盗人をきる事（上）</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　今は昔、駿河前司・橘季通の父親で、陸奥前司・則光という人がいた。<br />
　武士というわけではなかったが、人からも一目置かれ、力などもたいそう強かった。<br />
　世間の覚えも良好。<br />
<br />
　さてその則光が若い頃、<br />
　まだ衛門府の蔵人をしていた頃のこと。<br />
<br />
　庁舎から女のもとへ行こうと、太刀だけを身につけ、<br />
　小舎人を一人お供に、大宮通りを歩いてゆくうち、<br />
　どこかの外塀の内側に人の気配がするので、<br />
　則光は不安に思いつつ、ともかく通り過ぎようとした。<br />
<br />
　八日か九日の月夜は更けて、ややふくらんだ半月も西山の峰へ近づいている。<br />
　西側にある塀の内は陰になって、人の立つ姿は見えない。<br />
　が、確かに声がして、<br />
「そこを行く者、止まれ。公達がいらっしゃるぞ。行き過ぎてはならぬ」<br />
　と言いかけため、やはりか、と則光が足早に通り過ぎようとするのを、<br />
「おのれ、そのまま行けるものか」<br />
　と、走りかかる相手を、うつむきがちに見れば、<br />
　弓の影は見えなかったが、太刀がきらりと光ったため、<br />
　木などではない、と頭を抱えて逃げれば追いかけてくる。<br />
<br />
「頭を打ち割られる」<br />
　と思い、則光が唐突に、傍らに制止すれば、<br />
　追いかけてきた連中は勢い余って止れず、前へ飛び出してくる。<br />
　と、それをやり過ごし、太刀を抜いて打ち払えば、<br />
　賊は頭を真っ向から打ち破られ、前のめりになって、ひっくりかえった。<br />
<br />
　してやったり――と思うのも束の間、<br />
「奴め、何をしやがった！」<br />
　と喚きながらさらに何者かが走りかかるので、<br />
　太刀はとても抜き合わせられぬ、と脇に挟んで逃げ出せば、<br />
「猪口才な奴」<br />
　と言いながら、駆けてくる。<br />
<br />
　これを見れば最前の奴よりは足が早そう、<br />
　また同じ計略にはかからぬぞ、とその場で急にしゃがみ込んだところ、<br />
　疾走中の相手、こちらに蹴つまずいて、うつぶせに倒れたため、<br />
　則光、立ち上がるや相手の起き上がるより先に、頭を打ち破ってのけた。<br />
<br />
　これでどうだ、と見れば残りは三人。<br />
　そのうちの一人が、<br />
「この上は、決して行かせるな。小賢しい真似をする奴！」<br />
　と、執念深く走りかかるため、<br />
「今回こそは殺される。神仏、助けたまえ」<br />
　そう念じて太刀を槍のように握り、加速して攻めかかってくる相手へ、<br />
　いきなり立ち向かおうと、はったと体当りしてみれば、<br />
　相手も斬りつけてきたが、あまりに近くへぶつかったから、こちらは着物さえ斬られぬ。<br />
<br />
　しかし相手は逆に、こちらが槍のように握った太刀に真ん中を貫かれ、<br />
　さらに則光がさっと太刀の柄を返して、あおむけに倒れる身体を斬り捨てにしたから、<br />
　賊の太刀を持つ腕が、肩から打ち落とされたのであった。<br />
<br />
　さらに則光、そこを飛び退き、ほかに誰かいる――。<br />
　と聞き耳を立てたが、さすがにもう人の気配は無かった。<br />
<br />
　そして則光がその場から駆け出し、中御門の門から中へ入って柱にもたれていると、<br />
　小舎人童は今までどうしていたのか、大喜びで主人のもとへ駆けつけるのだった。</font><br />
<br />
（つづく）<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%"><strong>則光盗人をきる事</strong><br />
今は昔、駿河前司橘季通（すゑみち）が父に、陸奥前司則光といふ人ありけり。兵家にはあらねども、人に所置かれ、力などいみじう強かりける。世のおぼえなどありけり。わかくて衞府の蔵人にぞ有けるとき、殿居所より女のもとへ行とて、太刀ばかりをはきて、小舎人童をたゞ一人具して、大宮をくだりに行きければ、大がきの内に人の立てるけしきのしければ、おそろしと思て過けるほどに、八九日の夜ふけて、月は西山にちかくなりたれば、西の大がきの内は影にて、人のたてらんも見えぬに、大がきの方より聲ばかりして、「あのすぐる人、まかりとまれ。公達のおはしますぞ。え過ぎじ」といひければ、さればこそと思ひて、すゝどく歩みて過るを、「おれは、さてはまかりなんや」とて、走かゝりて、物の來ければ、うつぶきて見るに、弓のかげは見えず。太刀のきらきらとして見えければ、木にはあらざりけりと思ひて、かい伏して逃るを、追ひつけてくれば、頭うち破られぬとおぼゆれば、にはかにかたはらざまに、ふとよりたれば、追ふ者の、走はやまりて、え止まりあへず、さきに出たれば、すごしたてて、太刀をぬきて打ければ、頭を中よりうち破たりければ、うつぶしに走りまろびぬ。<br />
ようしんと思ふ程に、「あれは、いかにしつるぞ」といひて、又、物の走りかゝり來れば、太刀をも、えさしあへず、わきにはさみて逃ぐるを、「けやけきやつかな」といひて、はしりかゝりて來る者、はじめのよりは、走のとくおぼ〔え〕ければ、これは、よもありつるやうには、はかられじと思ひて、俄に居たりければ、はしりはまりたる者にて、我にけつまづきて、うつぶしに倒れたりけるをちがひて、たちかゝりて、おこしたてず、頭を又打破てけり。いまはかくと思ふ程に、三人ありければ、今ひとりが、「さては、えやらじ。けやけくしていくやつ哉」とて、執念く走りかゝりて來ければ、「此たびは、われはあやまたれなんず。神佛たすけ給へ」と念じて、太刀を桙のやうにとりなして、走りはやまりたる者に、俄に、ふと立むかひければ、はるはるとあはせて、走りあたりにけり。やつも切りけれども、あまりに近く走りあたりてければ、衣だにきれざりけり。桙のやうに持たりける太刀なりければ、うけられて、中より通りたりけるを、太刀の束を返しければ、のけざまにたうれたりけるを切りてければ、太刀をもちたる腕を、肩より、うち落してけり。さて走りのきて、又人やあるときゝけれども、人の音もせざりければ、走りまひて、中御門の門より入て、柱にかいそひてたちて、小舎人童はいかゞしつよろこびて走り來にけり。</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当役者の呟き：</strong><br />
訳を固めるのが苦しいですが、チャンバラ表現はなかなかおもしろいです。<br />
ちゅか、これは古文随一のアクションものかもしれません。<br />
ちなみに、今昔物語にも、これとほぼ同一の内容が登場しています。「陸奥前司橘則光、人を切り殺す語」<br />
<br />
<strong>橘則光：</strong><br />
たちばなののりみつ。清少納言の最初の夫。ちなみに息子の橘季通は、清少納言の息子かもしれません。<br />
<br />
<strong>鉾：</strong><br />
ほこ。矛。<br />
「槍」とは違いますが分りにくいと思いますので、上の適当訳では「鉾」は「槍」にしてあります。<br />
どちらかというと、矛は先端が丸っこい感じで、槍はとんがってます。日本の武器で「槍」が主流になるのは、鎌倉後期、南北朝時代なので、この頃は、丸っこい「矛」が一般的だったはずです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/283/</link>
			<pubDate>Wed, 23 May 2012 00:47:46 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１３１）清水寺御帳給る女の事</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　今は昔。<br />
　身よりも無いので、ひたすら清水寺へ参詣している女がいた。<br />
<br />
　歳月を積み重ねて、お参りを続けたが、露ほども御利益は無く、<br />
　そればかりかだんだん頼りない境遇になった挙句、<br />
　長年所有していた地所まで失って、居るべき場所も無いまま、さまよい歩くことになり、<br />
　泣く泣く観音を恨み抜いて言うには、<br />
「いかなる前世の報いがあろうとも、ほんのわずかの恵みを与えてください」<br />
<br />
　拝み抜いて訴え、観音の前へ伏し倒れた夜の夢に、<br />
「観音より」<br />
　といって、<br />
「そのように切に、切に申すことであるから観音も哀れに思し召すが、<br />
　おまえの方で、まったく頼りになる者がおらぬ状況では、どうしようもなく、<br />
　観音はそのことで嘆かれている。これを受け取りなさい」<br />
<br />
　と、観音の前に吊された、御帳の帷子をきれいに畳んで、女の前へ置いた<br />
　――と見たと思うと、夢から覚めたのである。<br />
　そして灯明の光に透かして見れば、<br>
　夢のとおり、御帳の帷子がたたまれて、前へ置いてある。<br />
<br />
　つまりこれより他にたまわるものは無いのかと、<br />
　我が身の不幸を思い知らされて、哀しく、さらに申し上げるには、<br />
「こんなもの、頂戴しませぬ。すこしでも頼みに思えるものがある身なら、<br />
　錦を縫って、御帳でも何でもさしあげようと思うのに、<br />
　こんな御帳だけいただき、帰れるはずがありません。お返しします」<br />
　と言って、犬防ぎの柵の内側へ手を差し込むと、それを返却してのけたのである。<br />
<br />
　すると、またまどろみの中の夢で、<br />
「何でそう小賢しい真似をするのか。<br />
　ただ下されるものを受け取らず、こうして返すなど、怪しからぬことである」<br />
　と、また几帳をたまわる夢を見る。<br />
　目覚めて見れば、やっぱり同じように几帳が前にあるので、女は泣く泣く、さらに返却する。<br />
<br />
　こんなふうに、女は三度も返したが、やはり同じものが与えられ、<br />
　しかも最後には、<br />
「今度、返そうとするのは、無礼の振る舞いである」<br />
　ときつく言われてしまったから、<br />
　これ以上は、事情も知らない寺僧から御几帳を盗んだと疑われかねない、<br />
　そう思い悩んだ挙句、まだ夜も深いうちに几帳を懐へ入れて、<br />
　観音の御前から引き下がったのである。<br />
<br />
　さて女は、貰った布をどうしようかと広げて見たところ、<br />
　ほかに着るべき衣さえなかった折だったし、<br />
　これを着物にして身につけようと思いついた。<br />
<br />
　そして仕立てて、着てみれば、女の姿を見た者は男でも女でも、<br />
　何とも愛おしい相手であるように思うようになり、<br />
　やがて縁も無いような人から、さまざまな物を送られるようになった。<br />
　さらに、大切な人にまつわる訴訟も、その衣を着れば、<br>
　面識の無い高貴な相手のもとへも参上でき、訴えれば必ず勝つのだった。<br />
<br />
　このようにして、女は、人様から物を得て、よき男からも慕われ、<br />
　幸福に暮すようになった。<br />
　その後、女はその着物をしまっておき、<br />
　この一大事、と思う時にだけ取り出して着るようになったという。<br />
　そうすれば必ず叶うのである。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%">清水寺御帳給る女事<br />
今は昔、たよりなかける女の、清水にあながちに参るありけり。年月つもりけれども、露ばかり、そのしるしと覚えたることなく、いとゞたより なく成りまさりて、果は、年比有ける所をも、其事となくあくがれて、よりつくところもなかりけるまゝに、泣く泣く観音を恨申て、「いかなる先世のむくひなりとも、たゞすこしのたより給候はん」と、いりもみ申て、御前にうつぶしふしたりける夜の夢に、「御前より」とて、「かくあながちに申せば、いとほしくおぼしめせど、すこしにてもあるべきたよりのなければ、そのことをおぼしめし歎くなり、これを給れ」とて、御帳のかたびらを、いとよくたゝみて、前にうち置かると見て、夢さめて、御あかしの光に見れば、夢のごとく、御帳のかたびら、たゝまれて前にあるを見るに、さは、これより外に、たぶべき物のなきにこそあんなれと思ふに、身のほどの思しられて、かなしくて申やう、「これ、さらに給はらじ。すこしのたよりも候はば、にしきをも、御帳にはぬいて参らせんとこそ思候に、この御帳ばかりを給はりて、まかり出べきやうも候はず。返し参らせさぶらひなん」と申て、いぬふせぎの内に、さし入て置きぬ。又まどろみいたる夢に、「などさかしくはあるぞ。たゞ給はん物をば給はらで、かく返し参らする。あやしきことなり」とて、又給はるとみる。さてさめたるに、又おなじやう に前にあれば、なくなくかくへし参らせつ。かやうにしつゝ、三たび返し奉るに、猶またかへし給びて、はての度は、この度かへし奉らんは、無禮（むらい）なるべきよしを、いましめられければ、かゝるとも知らざらん寺そうは、御帳のかたびらを、ぬすみたるとや疑はんずらと、思ふもくるしければ、まだ夜ぶかく、ふところにいれて、まかり出にけり。これをいかにとすべきならんと思て、 ひきひろげて見て、きるぺき衣もなきに、さは、これを衣にして着んと思ふ心つきぬ。これを衣にして着てのち、見と見る男 にもあれ、女にもあれ、あはれにいとほしきものに思はれて、そゞろなる人の手より、物をおほく得てけり。大事なる人のうれへをも、其衣をきて、しらぬやんごときなき所にも参りて申させければ、かならずなりけり。かやうにしつゝ、人の手よりものを得、よき男にも思はれて、たのし くぞ有ける。されば、その衣をばおさめて、かならず先途と思ふことの折にぞ、とり出て着ける。かならずかなひけ り。</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き：</strong><br />
本当、このころの信心ってのは直接的ちゅか何ちゅか、ですね。<br />
<br />
<strong>御帳の帷子：</strong><br />
みちょうのかたびら。観音様の前へ垂らすカーテンみたいなものですね。<br />
ある程度はきれいな代物ですけど、こんなものをもらっても仕方ない、と思うのも分ります。<br />
そして確かに、持ち出せば盗人扱いされますね。<br />
<br />
<strong>犬ふせぎ：</strong><br />
殿舎や門の前などに設けた低い柵のこと。犬ふせぎって名前なんですね。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/282/</link>
			<pubDate>Mon, 14 May 2012 05:10:37 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１３０）蔵人得業、猿沢の池の龍の事</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">　これも今は昔、<br />
　奈良の興福寺に蔵人得業（とくごう）の、惠印という僧侶がいた。<br />
<br />
　鼻が大きく赤かったので、<br />
「大鼻の蔵人得業」<br />
　と呼ばれていたが、そのうちに長たらしいからと、<br />
「鼻蔵人」<br />
　と言われるようになり、さらに後には、<br />
「鼻蔵、はなくら」<br />
　とだけ言われていた。<br />
<br />
　さて、その鼻蔵が、若いとき。<br />
　猿沢池の端に、<br />
<br />
『なん月なん日に、この池より龍が天へ登ろうとするものなり』<br />
<br />
　と記された札が立ったので、通りかかりの老若や、然るべき人々まで足を止めて、<br />
「これは是非とも見なければ」<br />
　と、ささやき合った。<br />
<br />
　だがそれを見ながら、実はこの鼻蔵人、<br />
「おかしな話だ。わしが書いたに過ぎぬことなのに、人々が騒ぎ合っておる。馬鹿な奴らめ」<br />
　と、心中でおかしく思っていた。<br />
　とはいえ、だまし続けてやろうと、そ知らぬ顔で過しているうち、<br>
　さて、その月になった。<br />
<br />
　すでに噂は広く大和、河内、和泉、摂津の者にまで伝わっていて、<br />
　大勢の人が、猿沢の池へ集り始めたので、<br />
　惠印は、<br />
「しかし、どうしてここまで集るのだろう。<br />
　これは、何かが本当に起こるのではないか。不可思議なことだ」<br />
　と思いつつ、さらに何食わぬ顔で日を過して、<br />
　当日を迎えれば、人々が道も通れぬほど集まり、ひしめくありさま。<br />
<br />
　やがて時刻となれば、惠印は、<br />
「もはやこれはただごとではない。<br />
　自分のしたことだが、よくよくのことがあるに違いない」<br />
　と思い込み、<br />
「実に、本当に起こるかもしれない。行って、確かめねば」<br />
　と、頭を布で包んで出かけてみれば、<br />
　池の周りは、もう近づくこともできないほどになっている。<br />
<br />
　それで興福寺南大門の壇の上へのぼり、そこから池を見下ろして、<br />
　今にも龍が登るか、登るかと待っていたが――何で、登るわけがない。<br />
　日も暮れた。<br />
<br />
　暗くなり、結局、起こるべきことではないからすごすごと帰る途中、<br>
　盲人が一人、橋の一つを渡りかけていた。<br>
　惠印が、<br />
「あな、危ないめくらだ」<br />
　と言えば、盲人はすばやく、<br />
「違う、鼻くらだ」<br />
　と言い返した。<br />
　鼻先が見えないだけだというのだ。<br />
<br />
　この盲人、惠印が「鼻蔵」と呼ばれていることを知らなかったはずだが、<br />
　めくらと呼ばれたことで即座に、<br />
「違う、鼻くらだ」<br />
　と、当の鼻蔵法師へ言ったということは、<br />
　また一つのおかしなことではあるまいか。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%">蔵人得業猿沢の池の龍の事<br />
これも今は昔、奈良に蔵人得業恵印（ゑいん）といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」といひけるを、後ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞいひける。なほ後々には、「鼻蔵（はなくら）鼻蔵」とのみいひけり。<br />
それが若かりける時に、猿沢の池の端（はた）に、「その月のその日、この池より龍登らんずるなり」といふ札を立てけるを、往来（ゆきき）の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」と、ささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を、人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中におかしく思へども、すかしふせんとて、空知らずして過ぎ行く程に、その月になりぬ。大方大和、河内、和泉、摂津国の者まで聞き伝へて、集ひ合ひたり。恵印、「いかにかくは集る。何かあらんやうのあるにこそ。怪しき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行く程に、すでにその日になりぬれば、道もさり敢へず、ひしめき集る。<br />
その時になりて、この恵印思ふやう、ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそと思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて頭（かしら）つつみて行く。大方近う寄りつくべきにもあらず。興福寺南大門の壇の上に登り立ちて、今や龍の登るか登るかと待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。<br />
暗々（くらぐら）になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、盲（めくら）が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、盲とりもあへず、「あらじ。鼻くらなり」いひたりける。この恵印を、鼻蔵といふも知らざりけれども、めくらといふにつきて、「あらじ。鼻蔵なり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合せたるが、をかしき事の一つなりとか。<br />
</span><br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き</strong><br />
芥川龍之介「龍」の原話ということで、教科書の定番みたいです。<br />
でも「めくらめくら」と放送禁止用語が出てくることもあって、教科書では、最後が削除されるようです。ひどい学校教育ですね。<br />
個人的には、イベントを見ようと、数日前から池の周りに人が集っていることが興味深かったです。場所取りというか、暇人というか。<br>
<br />
<strong>得業：</strong><br />
とくごう。ある程度の修行を積んだ僧侶のことです。<br />
そして「蔵人」は、天皇家の秘書官的存在のこと、と出るのですが、この惠印という「蔵人得業」がどういう身分なのか、微妙にわかりません。<br>
「本当に天皇家の秘書官をしている得業」か、「昔蔵人だった得業」あるいは、「興福寺の蔵（役所）勤めの得業」か、そのどれかだと思います。個人的には、３つ目っぽい気がしますが分りません。<br />
<br />
<strong>猿沢の池：</strong><br />
興福寺の南にある、今でも撮影スポット的な池。南都八景のひとつ。生き物を逃がしてやる放生池として、天平年間（７４９）に造られた人口の池だそうです。<br />
<br />
<strong>ちなみに：</strong><br />
この宇治拾遺では、「龍なんて現れるわけがない」としていますが、芥川「龍」では最後、見事に龍が現れます。さらに言うと、室町時代・世阿弥のつくった「春日龍神」という謡曲（能）でも、龍が出現します。<br />
&hellip;&hellip;とある僧侶が、修行のため天竺へ渡ろうとしたところ、<br />
「奈良の春日山（興福寺の管理地）が霊山なので、わざわざ旅に出なくても良いよ」<br />
とお告げがあり、さらに八大竜王が幾百の眷族を連れて釈迦の一代記を見せるので、<br />
坊さんは、<br />
「じゃあ、もういいや」<br />
と旅行をとりやめる、そして竜神たちは猿沢の池へ飛び入って消え失せる――という筋です。<br />
<br />
<strong>鼻くら：</strong><br />
微妙に意味不明ですが、「めくら」と呼ばれて、こう返しているあたり、「違う、自分の鼻が見えないだけだ！」という意味だと思いました。この返事からすると、この時代でも「めくら」と呼ばれるのは不快だったのかと思われます。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/281/</link>
			<pubDate>Mon, 07 May 2012 02:34:01 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２９）白河法皇北面、受領の下りのまねの事</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　これも今は昔、白河法皇が鳥羽殿にいらした折のこと。<br />
<br />
　北面の武士たちに、<br />
「受領が任地へ赴くときの恰好をさせて、ご覧に入れるべし」<br />
　と命令があったので、玄蕃頭・久孝という者を受領役にして衣冠に着物を整え、<br>
　他の五位の者どもは前駆、兵衛府の者たちは弓隊などと仮装して、<br />
　ご覧にいれることにした。<br />
<br />
　おのおの錦や唐綾で着飾り、ほかに負けじとしている中で、<br />
　左衛門尉・源行遠という者は、とくに意気込みすごく、<br />
「前もって人に見られては、珍しさが無くなるから」<br />
　と、御所に近い人の家へ入って、従者を呼ぶと、<br />
「おい、御所付近の様子を見て来い」<br />
　と見に行かせた。<br />
<br />
　が、その従者がいつまでも帰って来ないので、<br />
「どうしてこう遅いのだ」<br />
　例の催しは、朝の辰刻に始まり、ずっとやっているとはいえ、<br />
　遅くとも昼の午や未の刻には参上しなければいけないのに、<br />
　と待ち構えていると、ようやく門の方から声がして、<br />
「いやあ、すばらしい見物でした、すばらしい見物でした」<br />
　と言っている。<br />
<br />
　それで、こちらがいつ登場するべきか、しおどきを伝えて来るかと思えば、<br />
「玄蕃殿の国司姿は、すごいものでした」<br />
　と言い、さらに、<br />
「藤左衛門殿は錦をお召しになっていました。源兵衛殿は金の綾を縫つけて」<br />
　などと話し込むばかり。<br />
<br />
　不安に感じて、<br />
「おい」<br />
　と呼べば、この「見て来い」と命じた男は笑顔でやって来て、<br />
「何とも、あれほどの見物はほかにございません。賀茂祭が何でもないほどです。<br />
　院の御桟敷へ向って人々が行列するさまは、まったく、目が追いつかないくらいでしたよ」<br />
　と言う。<br />
<br />
「それで、頃合いはどうだ」<br />
　と尋ねると、<br />
「もう終りましたよ」<br />
　と答える。<br>
「ど、どういうことだ。なぜその前に来て告げない」<br />
「それはどういう意味でございましょう？　『見に行け』と仰せになるので、<br />
　目を凝らして、よく見てきたのでござりますが」<br />
　そう答えたから、行遠はもう言葉がなくなってしまった。<br />
<br />
　一方、法皇の側では、<br />
「行遠が参らぬ。返す返すも不審なことじゃ。まちがいなく奴は押し込めにせよ」<br />
　と仰せがあり、行遠は二十日ほども謹慎させられたが、<br />
　やがて、ことの次第が明らかになると法皇もお笑いになり、<br />
　押し込めも許されたという。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%">白河法皇北面受領の下りのまねの事<br />
これも今は昔、白河法皇、鳥羽殿におはしましける時、北面の者どもに、受領の国へ下るまねさせて、御覧あるべしとて、玄審頭久孝（げんばのかみひさたか）といふ者をなして、衣冠に衣出して、その外の五位どもをば前駆せさせ、衛府どもをば、胡録（やなぐひ）負ひにして御覧あるべしとして、おのおの錦、唐綾（からあや）を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉字（さゑもんのじょう）源行遠、心殊に出で立ちて、「人にかねて見えなば、めなれぬべし」とて、御前近かりける人の家に入り居て、従者を呼びて、「やうれ、御前の辺にて見て来」と、見て参らせてけり。<br />
無期に見えざりければ、「いかにかうは遅きにか」と、辰の時とこそ催はありしか、さがるといふ定、午未の時には、渡らんずらんものをと思ひて、待ち居たるに、門の方に声して、「あはれ、ゆゆしかりつるものかなゆゆしかりつるものかな」といへども、ただ参るものをいふらんと思ふ程に、「玄蕃殿の国司姿こそ、をかしかりつれ」といふ。「藤左衛門殿は錦を着給ひつ。源兵衛殿は縫物をして、金の文をつけて」など語る。<br />
怪しう覚えて、「やうれ」と呼べば、この「見て来」とてやりつる男、笑みて出で来て、「大方かばかりの見物候はず。賀茂祭も物にても候はず。院の御桟敷の方へ、渡しあひ給ひたりつるさまは、目も及び候はず」といふ。「さていかに」といへば、「早う果て候ひぬ」といふ。「こはいかに、来ては告げぬぞ」といへば、「こはいかなる事にか候らん。『参りて見て来』と仰せ候へば、目もたたかず、よく見て候ぞかし」といふ。大方とかくいふばかりなし。<br />
さる程に、「行遠は進奉不参（しんぶふさん）、返す返す奇怪なり。たしかに召し籠めよ」と仰せ下されて、廿日余り候ひける程に、この次第を聞し召して、笑はせおはしましてぞ、召し籠めはゆりてけるとか。</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き</strong><br />
久しぶりの馬鹿話。<br />
この時代、「受領の出立式」というような感じで、華やかな行列があったのですね。<br />
後世、江戸の街では派手やかな大名行列を見物する人が割と多かったようですが、そんな感じかもしれません。<br />
<br />
<strong>白河法皇：</strong><br />
有名な、山法師と賀茂川とサイコロ以外は、思い通りになったという法皇さまですね。院政、院政。<br />
こんなことが出来てしまうくらい、権力があったのです。<br />
<br />
<strong>玄審頭久孝：</strong><br />
げんばのかみ、ひさたか。不明。<br />
玄蕃寮は、仏寺、僧尼、外国人を担当していたお役所です。<br />
<br />
<strong>受領：</strong><br />
ずりょう。国司のトップ。通常は、ナントカの守。<br />
定められた税金を納めた残りは全部自分のふところに入れることができるので、受領は金持ちです。本来の任期は３年とか４年ですが、院へ金を納めることで、何年も、何代も歴任して、さらに肥え太って行きます。<br />
受領が、白河院などへお金を献上し、意気揚々と任地へ行くとき、こんなふうに、ど派手な演出をしていたのですね。<br />
<br />
<strong>辰の時：</strong><br />
午前８時くらい。遠くへ行くのですから、朝はけっこう早いですね。<br />
<br />
<strong>午、未：</strong><br />
正午＝昼１２時。未は１４時ごろ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/280/</link>
			<pubDate>Tue, 01 May 2012 01:16:51 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２８）河内守頼信、平忠恒をせむる事（下）</title>
			<description>
			<![CDATA[<a href="http://edosoko.edoblog.net/Entry/278/">（最初から）</a><br />
<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">　さて頼信が海を渡って行く一方。<br />
　館に籠もる平忠恒は、<br />
「舟はすべて取り隠しておいたゆえ、相手は海を迂回して寄せて来るであろう。<br />
　海の浅い道があることも知っているのは自分だけだ。すぐに渡って来られるわけがない。<br />
　敵が浜を迂回して来る間に、作戦を実行するとか、ここを引き上げても良い。<br />
　とにかく連中は、迂回しなくては攻め寄せられるものではないのだ」<br />
　と、落ち着き払って、軍勢を揃えていたところ、<br />
　館の周りにいた家来が慌てて駆けてきて、<br />
<br />
「上野守は、この海の中に浅道があったというので、多くの軍勢を率い、<br />
　まっすぐここへ向っています。いかがいたしましょうか」<br />
　と、わななき、ふためくので、忠恒も前々からの策に反したことを悟って、<br />
「すでに攻められているということか。ならば、こうするほかあるまい」<br />
　と、即座に降伏の名簿（みょうぶ）をしたため、文ばさみに付けると、<br />
　小舟に郎党一人を乗せて、捧げ持たせて行った。<br><br />
　頼信はこれを見、名簿を受け取って言うには、<br />
「このように名簿に詫び状を添えて差し出した。敵はすでに我が前に降伏したということだ。<br />
　これ以上は、わざわざ攻め立てるには及ばぬ」<br />
　と、忠恒からの手紙を取り、馬を引き返したので、兵士たちもみな帰還するのであった。<br />
<br />
　この後から、この頼信のことを、<br />
「まことにすぐれた、たいへん立派な御人でいらっしゃるぞ」<br />
　と、いよいよ世上の評判は高くなった。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%">河内守頼信平忠恒をせむる事（つづき）<br />
忠恒は、海をまはりてぞ寄せ給はんずらん、舟はみなとりかくしたれば、浅道をば、わればかりこそ知りたれ。すぐにはえわたり給はじ。濱をまはり給はん間には、とかくもし、逃もしてん。さうなくは、え攻め給はじと思て、心しづかに軍そろへてゐたるに、家のめぐりなる郎等、あわて走りきていはく、「上野殿は、此うみの中に浅き道の候けるより、おほくの軍をひき具して、すでにこゝへ来給ひぬ。いかゞせさせ給はん」と、わなゝきごゑに、あわてていひければ、忠恒、かねてのしたくにたがひて、「われすでに攻められなんず。かやうにしたて奉らん」と云て、たちまちに名簿をかきて、文ばさみにはさみてさし上て、小舟に郎等一人のせて、もたせて、むかへて、参らせたりければ、守殿みて、かの名簿をうけとらせていはく、「かやうに、名簿に怠り文をそへていだす。すでに来たれるなり。されば、あながちに攻むべきにあらず」とて、この文をとりて、馬を引かへしければ、軍どもみなかへりけり。その後より、いとゞ守殿をば、「ことにすぐれて、いみじき人におはします」と、いよいよいはれ給けり。</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き</strong><br />
あざやかですね。<br />
ちなみにこの話は、今昔物語集２５巻「源頼信朝臣責平忠恒語」の方が詳しくて、攻め寄せた時の詳細や、海の浅道を教えたのが「眞髪の高文」という者だった、などの情報が書き込まれています。<br />
ついでに言うと、関白道長が若い頃、父親が摂政に任じられたくらいの年に、「真髪成村」という陸奥か常陸出身の力士が御前相撲をとってます。頼信は道長さんの腹心なので、詳しいことは分りませんが、力士の親戚とか、一族の人が頼信に従っていたのでしょう。<br>
さらに余談で、戦国時代、佐竹家の家来として信長の野望なんかに出てくる「真壁」さんは、この「真髪」さんの子孫だという説があります。悠久の歴史ですね。<br>
<br />
<strong>平忠恒：</strong><br />
ちなみにこの降伏については、頼信が来る前にも朝廷方と戦っていて疲弊していたし、忠恒と頼信は以前、主従だった関係で、あっさり降った――という説が有力みたいです。<br />
史実的には、このあと忠恒は頭を丸めて京都へ連行。途中で病死したので首を刎ねて京都で晒されたそうです（でも出家・降伏したのに首をさらすのは余りにひどいというので、罪を許され、子孫も関東で繁盛します）。<br />
<br />
<strong>名簿：</strong><br />
みょうぶ。名刺のようなものですが、もっと詳細に書かれていて、弟子入りの際、師匠に渡したり、主君に差し出したりします。<br />
<br />
<strong>怠状：</strong><br />
おこたりじょう。たいじょう。謝罪の手紙。わび状。怠り文。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　<br />
]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/279/</link>
			<pubDate>Wed, 25 Apr 2012 01:58:06 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２８）河内守頼信、平忠恒をせむる事（上）</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　昔、今の河内守、源頼信（よりのぶ）が上野守に任じられていた頃。<br />
　関東に、平忠恒という武士がいた。<br />
　忠恒は朝廷からの命ぜられたことを、無かったことにするような態度を見せていたため、<br />
　これを討伐しなくてはと、頼信が大軍勢を率い、彼の住む方へ出立。<br />
　すると忠恒は、岩礁の多い入江を挟んだ対岸に館を築いて、待ち構えていた。<br />
<br />
　入江を迂回すれば、館を攻めるまで七日、八日はかかると思われる。<br />
　だがこのまま渡海すれば、その日のうちにも攻めかかることができると見えた。<br />
　とはいえ忠恒の側で、渡す舟をすべて隠していたため、渡る方法がない。<br />
<br />
　波打ち際へ立ち尽くし、<br>
　この浜に沿って、迂回するしかないだろうと兵士たちが思っていると、大将の頼信は、<br />
「入江に沿って迂回し、攻め寄せれば数日かかる。<br />
　その間に敵は逃げるやもしれぬし、また良からぬ備えをするやもしれぬ。<br />
　だが今日のうちに寄せて、攻めかかれば、<br />
　あやつはそんなことを予想もしておらぬし、あわてふためくに違いない。<br />
　とはいえ舟はみな引き隠されておる。いかがするべきか」<br />
　と、兵卒へ尋ねた。<br />
<br />
　だが、兵士たちは、<br />
「どうにも渡る方法はありません。迂回して攻め寄せるしかござりません」<br />
　と言う。<br />
<br />
「なるほど。だが我が兵士の中に道を知る者はおらぬか。<br />
　この頼信、関東を見るのは今回が初めてだが、我が家に伝わる話で、聞き置いたことがある。<br />
　すなわち、この海中には、堤のごとく、幅一丈ほどの、そのまま渡れる道があるとか。<br />
　そこでは水深も馬の腹に届く程度だと聞くが、ここら辺こそ、その海の道の場所ではないか。<br />
　この多くの兵士の中で、そのことを知る者はおらぬか。<br />
　おれば先に渡って示せ。頼信が続いて渡る」<br />
<br>
　と、馬の足を速めて波打ち際を走れば、知る者がいたのだろう。<br />
　四、五騎の武者が、海の道を渡って行った。<br />
　確かに、水は馬腹に達する程度である。<br />
<br />
　これだけ多くの兵士の中で、たった三人が、この道を知っていた。<br />
　その他の者は、<br />
「まったく知らなかった。聞いたこともない。<br />
　ここに代々住んでいる者さえあるのに聞いたこともなく、知らなかった。<br />
　それなのに殿様は、この国へ来たのだって初めだというのに、<br />
　ああやってご存知だというのは、まったく、優れた武門の道にある御人ではないか」<br />
　と、みんなしてささやき合い、畏怖した。</font><br />
<br />
（つづく）<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong><br />
<hr /><span style="font-size:90%">
河内守頼信平忠恒をせむる事<br />
昔、河内守頼信、上野守（かうづけのかみ）にてありしとき、坂東に平忠恒といふ兵（つはもの）ありき。仰らるゝ事、なきがごとくにする、うたんとて、おほくの軍（いくさ）おこして、かれがすみのかたへ行むかふに、岩海にはるかにさし入たるむかひに、家をつくりてゐたり。この岩海をまはるものならば、七八日にめぐるべし。すぐにわたらば、その日の中に攻つべければ、忠恒、わたりの舟どもを、みな取隠してけり。されば渡るべきやうもなし。<br />
濱ばたに打たちて、この濱のまゝにめぐるべきにこそあれと、兵ども思ひたるに、上野守のいふやう、「この海のまゝに廻てよせば日比へなん。その間に逃もし、又よられぬ構へもせられなん。けふのうちによせて攻めんこそ、あのやつは存じのほかにして、あわてまどはんずれ。しかるに、舟どもは、みな取隠したる、いかゞはすべき」と、軍どもに問はれけるに、軍「更にわたし給べきやうなし。まはりてこそ、よせさせ給べく候」と申ければ、「この軍共の中に、さりとも、この道しりたる者は有らん。頼信は、坂東がたはこの度こそはじめて見れ。されども、我家のつたへにて、聞き置きたることあり。この海中には、堤のやうにて、ひろさ一丈ばかりして、すぐにわたりたる道あるなり。深さは馬の太腹にたつと聞く。この程にこそ、その道はあたりたるらめ。さりとも、このおほくの軍どもの中に、しりたるもあるらん。さらば、さきに立ちてわたせ。頼信つゞきてわたさん」とて、馬をかきはやめて寄りければ、しりたるものにやありけん、四五騎斗（ばかり）の軍どもわたしけり。まことに馬の太腹に立てわたる。<br />
おほくの兵どもの中に、たゞ三人ばかりぞ、この道はしりたりける。のこりは、「つゆもしらざりけり。聞くことだにもなかりけり。然に、此守殿、此国をば、これこそ始にておはするに、我等は、これの重代のものどもにてあるに、聞だにもせず、しらぬに、かくしり給へるは、げに人にすぐれたる兵の道かな」と、みなさゝやき、怖ぢて、わたり行程に、</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き</strong><br />
平安武士のかっこよさ。つづきます！<br />
<br />
<strong>河内守／上野守頼信：</strong><br />
源頼信。河内源氏の祖とされていて、藤原道長の四天王とか呼ばれていました。<br />
<br />
<strong>平忠恒：</strong><br />
たいらのただつね。普通は「平忠常」で、日本史に出てきます。<br />
有名な反逆者・平将門の親戚。将門からすると「従弟の子供」にあたります。<br />
（将門の祖父＝高望王＝忠恒の曾祖父）<br />
租税の納入を怠ううちに、だんだんと増長。関東で暴れ回り、安房守・平惟忠を焼き殺したことで朝廷から追討命令。平直方という武将がまず討伐に向いますが手を焼き、頼信と交代。上のお話につながります。<br />
ちなみに、将門方面の、坂東平氏はたいへん親戚間の仲が悪く、将門も、伯父の国香とか良正と争ったりしています。<br />
<br />
<strong>守殿：</strong><br />
こうどの、こうのとの。<br />
「こう」というのは「かみ」のことで、国守、左馬頭、右馬頭、衛門督、兵衛督などを敬っていう言葉です。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/278/</link>
			<pubDate>Tue, 24 Apr 2012 00:41:03 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２７）晴明、かえる殺す事</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　この清明がある時、広澤の僧正の宿坊へ出向き、<br />
　あれこれ話をしているうち、若い僧侶たちから、<br />
「式神をお使いになるということは、即座に人を殺すこともできますか」<br />
　と質問された。<br />
<br />
　清明は、<br>
「容易には殺せません。殺すのなら力を入れます」<br />
　とはいえ虫などは、少しの力で必ず殺せます。<br />
　しかし私は、生き返らせる方法を知りませんので、それでは罪を得ることになり、<br />
　そのような殺生、する意味もありません」<br />
　と話しているうちに、庭へカエルが出てきた。<br />
<br />
　五匹、六匹が飛び跳ねながら池の方へ行くのを見て、僧侶が、<br />
「ではあれをひとつ、試みに殺してください」<br />
　と言うので、<br />
「罪つくりの御坊ですね。しかし、試されているのであれば、殺してご覧に入れる」<br />
　と、草の葉を一枚、摘み切ると、何かを読み上げるようにして、<br />
　蛙の方へ、その草葉を投げ遣った。<br />
<br />
　ふわりと、葉が蛙の上へ乗った、<br />
　と見えた瞬間、蛙が真っ平らにひしゃげて圧死したものだから、<br />
　見ていた僧侶たちも顔色を変えて恐ろしいと思った。<br />
<br />
<br />
　家の中に人がいない時にも、清明はこの式神を使っていたらしい。<br />
　ゆえに誰もいないのに蔀が開閉し、門を閉ざしたと言われている。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
原文
<hr />
<span style="font-size:90%">晴明かへる殺事<br>
この晴明、あるとき、廣澤の僧正の御房に参りて、もの申うけたまはりけるあひだ、若僧どもの、晴明にいふやう、「式神を使給なるは、たちまちに人をば殺し給や」といひければ、「やすくはえ殺さじ。力をいれて殺してん」といふ。「さて蟲なんどをば、少のことせんに、かならず殺しつべし。さて生くるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうのこと、よしなし」といふほどに、庭にかはづの出きて、五六（いつつむつ）ばかり躍りて、池のかたざまへ行けるを、「あれひとつ、さらば殺し給へ。試みん」と、僧のいひければ、「罪をつくり給御坊かな。されども試み給へば、殺て見せ奉らん」とて、草の葉をつみきりて、物を誦やうにして、かへるのかたへ投げやりければ、その草の葉の、かへるの上にかゝりければ、かへる、まひらにひしげて、死にたりけり。これをみて、僧どもの色かはりて、おそろしと思けり。<br />
家の中に人なき折りは、この式神をつかひけるにや、人もなきに、蔀をあげおろし、門をさしなどしけり。</span><br />
<br />
<br />
<strong>適当役者の呟き</strong><br />
清明さん。。。<br />
<br />
<strong>廣澤の僧正：</strong><br />
広沢の僧正、寛朝。平安時代中期の真言宗の僧。<br />
宇多天皇の孫で、洛外・広沢の池のほとりに遍照寺という寺を開山した模様。<br />
日本で三番目の大僧正。（１．行基、２．良源）<br />
平将門の乱の時には、わざわざ関東へ下って祈祷したそうです。ちなみにそのとき僧正が祈祷に使った不動明王を、今も本尊としているのが、節分とかで有名な成田山新勝寺だそうです。へえー。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/277/</link>
			<pubDate>Fri, 20 Apr 2012 00:06:47 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２６）晴明を試みる僧の事</title>
			<description>
			<![CDATA[　<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">
　昔、安倍晴明の土御門の屋敷に、白髪頭の老僧がやって来た。<br />
　十歳ほどの童子を二人連れている。<br />
<br />
　清明が、<br />
「いかなる御人にござりますか」<br />
　と尋ねれば、<br />
「播磨の国の者にござる。陰陽術を習いたいと思う。<br />
　貴殿が、陰陽師の道にことに優れておいでと聞き、修得しようと参った」<br />
　と言うので、清明が思うには、<br />
（この法師はなかなかの人物に違いない。このわしを試みようとして来たのであろう。<br />
　悪いところを見せてはなるまい）<br />
　そして、<br />
（法師がわしを探ろうという魂胆なら、供に連れている童子も式神を使って連れているのだろう。<br />
　――式神ならば隠すべし）<br />
　心の中に念じ、袖の中で印を結んでひそかに呪文を唱えた。<br />
<br />
　そうして法師へ言うには、<br />
「ではひとまずお帰り下さい。いずれ良き日を見て、習おうと仰ることはお教えしましょう」<br />
　法師は、<br />
「それはありがたい」<br />
　と、手を合わせ、額に押し当てるようにして駆け去ろうとした。<br />
<br />
　だが門から出ようとしたところで、法師は立ち止った。<br />
　さまざまの所、車宿りなどを覗いて歩き回り、また表へ戻ってきて言うには、<br />
「供に連れてきた童子だが、二人ともいなくなっている。それをいただいて帰りたいが」<br />
　その言葉に清明は、<br />
「御坊はめずらしいことを仰る。何のためにこの清明が人のお供を取りましょうか」<br />
「それは、あなたの方に道理がござるが、しかし、どうかもうお許しください」<br />
　と詫びるので、<br />
「よし。御坊が人を試そうと、式神を使って来たのを煩わしく思ったまでのこと。<br />
　余人であればそのように試すのも良かろうが、<br>
　この清明を、何としてもそのようにしてはなりませぬ」<br />
　と言い、何かを読み上げるようにすると、<br />
　少しの後、外から童子が二人で駆け込み、法師の前へやって来たのだった。<br />
<br />
　それでとうとう法師は、<br />
「たしかに、試み申しました。なるほど式神を使うことは簡単なことでござりました。<br />
　今よりは、まことの御弟子になろうと思います」<br />
　と言い、懐から名刺を取り出し、差し出したのだった。</font><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<strong>原文</strong>
<hr />
<span style="font-size:90%">晴明（はれあきら）を試みる僧の事<br />
昔、晴明が土御門の家に、老しらみたる老僧来ぬ。十歳ばかりなる童部二人具したり。晴明「なにぞの人にておはするぞ」と問へば、「播磨の国の者にて候。陰陽師を習はん心ざしにて候。此道に、殊にすぐれておはしますよしを承て、少々習ひ参らせんとて、参りたるなり」といへば、晴明が思ふやう、この法師は、かしこき者にこそあるめれ。われを試みんとてきたる者なり、それにわろく見えてはわろかるべし、この法師すこしひきまさぐらんと思て、共なる童部は、式神をつかひてきたるなめりかし、式神ならばめしかくせと、心の中に念じて、袖の内にて印をむすびて、ひそかに呪をとなふ。さて法師いふやう、「とく帰給ね。のちによき日して、習はんとのたまはん事どもは、教へ奉らん」といへば、法師「あら、貴と」といひて、手をすりて額にあてて、たちはしりぬ。<br />
いまは去ぬらんと思ふに、法師とまりて、さるべき所々、車宿（くるまやどり）などのぞきありきて、又まへによりきていふやう、「この供に候つる童の、二人ながら失ひて候。それ給はりて帰らん」といへば、晴明「御坊は、希有のこといふ御坊かな。晴明は何の故に、人の供ならん者をば、とらんずるぞ」といへり。法師のいふやう、「さらにあが君、おほきなる理り候。さりながら、たゞゆるし給はらん」とわびければ、「よしよし、御坊の、人の心みんとて、式神つかひてくるが、うらやましきを、ことにおぼえつるが、異（こと）人をこそ、さやうには試み給はめ。晴明をば、いかでさること、し給べき」といひて、物よむやうにして、しばしばかりありければ、外の方より童二人ながら走入て、法師のまへに出来ければ、その折、法師の申やう、「実に試み申つるなり。使ことはやすく候。今よりは、ひとへに御弟子になりて候はん」といひて、ふところより、名簿（みやうぶ）ひきいでて、とらせけり</span>。<br />
<br />
<br />
<strong>適当訳者の呟き：</strong><br />
清明さんカッコイイ！<br />
<br />
<strong>安倍晴明：</strong><br />
言わずと知れた陰陽師のスーパースター。この次も清明さんの話です。<br />
※本によっては、今回の話と次の話は、同じ１２６話です。<br />
<br />
ちなみに清明さん。この題名には、「はれあきら」とフリガナしてあります。<br />
「よりみつ」「さだいえ」など、普通は訓読みですが、名高くなると音読みにする、という風習があるので、それで「せいめい」が有名なのだと思われます。「源頼光（らいこう）」「藤原定家（ていか）」「多田満仲（まんじゅう）」とか。<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E8%AA%AD%E3%81%BF" target="_blank">Wikipedia</a>によれば、こういうのを「有職読み」というのですが、どういう人が対象になるのかは分らんそうです。<br />
<br />
<strong>名簿：</strong><br />
みょうぶ。弟子や家来になる際に差し出す、年月日、官職、姓名などを記した名刺です。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/276/</link>
			<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 00:22:09 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２５）保輔、盗人たる事</title>
			<description>
			<![CDATA[<br />
<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">　今は昔。<br />
　丹後守・保昌の弟に、兵衛尉として元服、冠を賜った保輔（やすすけ）という者があった。<br />
　盗人の長である。<br />
<br />
　家は姉小路の南、高倉の東にあったといわれ、<br />
　家の奥に蔵をつくり、床下を深く、井戸のように掘って、<br />
　太刀や鞍、鎧や兜、絹、布といった、さまざまなものを売る者を呼び入ると、<br />
　言われるままに買い取り、<br />
「代金を払おう。奥の蔵へ連れて行け」<br />
　と家来に命じる。<br />
<br />
　そして商人が、<br />
「よし代金を受け取るぞ」<br />
　とついて来るのを蔵の中へ招き入れるなり、<br />
　掘り下げた穴へ突き入れ、突き入れして、持って来た商品を奪うのであった。<br />
<br />
　これまでに、この保輔の屋敷へ品物を持ち込み、帰った者は無かった。<br />
　無論このことを不審に思う物売りもいたが、<br />
　皆殺しにしていたから、口に出す者はなかったのである。<br />
<br />
　これのみならず、保輔は、京都中の屋敷へ押し入り、盗みをしていた。<br />
　悪事はところどころ、噂になっていたが、<br />
　どういうわけか保輔は捕まり、搦められることもなく過ぎていたのであった。</font><br />
<br />
<br />
<br />
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<strong>原文</strong>
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<span style="font-size:90%">保輔盗人たる事<br />
今は昔、丹後守保昌（やすまさ）の弟に、兵衛尉にて、冠（かうぶり）賜りて、保輔といふ者ありけり。盗人の長にてぞありける。家は姉が小路の南、高倉の東に居たりけり。家の奥に蔵を造りて、下を深う井のやうに堀りて、太刀、鞍、鎧、兜、絹、布など、万（よろづ）の売る者を呼び入れて、いふままに買ひて、「値（あたひ）を取らせよ」といひて、「奥の蔵の方（かた）へ具して行け」といひければ、「値賜らん」とて行きたるを、蔵の内へ呼び入れつつ、堀たる穴へ突き入れ突き入れして、持て来たる物をば取りけり。この保輔がり物持て入りたる者の、帰り行くなし。この事を物売怪しう思へども、埋み殺しぬれば、この事をいふ者なかりけり。<br />
これならず、京中押しありきて、盗みをして過ぎけり。この事おろおろ聞えたりけれども、いかなりけるにか、捕へからめらるる事もなくてぞ過ぎにける。</span><br />
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<strong>適当役者の呟き</strong><br />
おそろしい奴。。。<br />
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<strong>保輔：</strong><br />
平安の大盗賊、袴垂保輔（藤原保輔）に間違いないですね。<br />
　<a href="http://edosoko.edoblog.net/Entry/130/">巻二　（２８）袴垂、保昌に会う事</a><br />
に出てきます。<br />
日本史的には、最後には捕まって、切腹しています（日本史上初の切腹）。<br />
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<strong>丹後守保昌：</strong><br />
第２８話では、「摂津前司」として出てきます。<br />
和泉式部が奥さんだったりして、この兄はまじめで立派な男子だった感じです。<br />
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　]]>
			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/275/</link>
			<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 01:46:03 GMT</pubDate>
		</item>
		<item>
			<title>巻十一　（１２４）青常の事（下）</title>
			<description>
			<![CDATA[<a href="http://edosoko.edoblog.net/Entry/273/">（最初から）</a><br />
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<font style="font-family:ｍｓ ゴシック;">　殿上人たちは、堀川中将へ向い、<br />
「このように起請を破るなど、実にけしからぬこと」<br />
「この上は我らが定めた通り、すみやかに酒や果物を取りにやり、償いをするべし」<br />
　と集まり、責め立た。<br />
<br />
　だが堀川中将は抵抗し、<br />
「しない」<br />
　と償いを拒んだが、執拗に、しつこく責められるので、<br />
「では明後日、『青常（あおつね）の君』の償いをする。殿上人に蔵人は、その日に集りたまえ」<br />
　と言って、出て行った。<br />
<br />
　さて当日。<br />
「堀川中将殿が、『青常の君』の償いをするぞ」<br />
　というので、屋敷へ集らない人は無いほどであった。<br />
　そして、座敷へ居並んだ殿上人が待ち構えている前へ、<br />
　堀川中将が、光輝くような直衣姿で出てきた。<br />
　お香もことばにならぬほど芳ばしく、魅力がこぼれ出るような恰好。<br />
<br />
　だが見れば、直衣の長々とした裾から、練り打ちされた青の内着がのぞき、指貫の袴も青。<br />
　さらに彼に従う随身三名も、青い狩衣に青い袴を着ている。<br />
　一人は、青く塗ったお盆の上に青色の皿を置き、そこへ、こくわという猿梨を載せ、<br />
　また一人は、竹の杖に山鳩を４－５羽つけたものを運んでいる。<br />
　さらに一人は、青地の瓶に酒を入れて運び、しかも瓶の注ぎ口を青い薄布で包んでいた。<br />
　そういう青い人々が人々の前へ出てきたので、みな声を上げ、笑いどよめいた。<br />
<br />
　と、これを帝がお聞きになり、<br />
「何事ぞ。殿上からおびただしく聞こえるのは」<br />
　とお尋ねになるので、女房の一人が、<br />
「兼通が『青常』と呼んでしまったことを若い連中に責められ、<br />
　その償いをしているはずですが、それを笑っているようです」<br />
　と申し上げた。<br />
<br />
　帝が、<br />
「どのように償っているのだ」<br />
　と、昼座所までお出ましになり、小蔀の隙間から覗かれれば、<br />
　当人はじめ、随身一同みな青色の装束で、<br />
　しかも青い食べ物を運ばせるという償いをしているので、<br>
　なるほど、これを笑ったのかと思し召し、<br />
　もはやお腹立ちになることもなく、帝もたいそう笑われたのだった。<br />
<br />
　この後は、懇切に叱る者も無くなったので、人々はいよいよ笑い、嘲るようになったという。</font><br />
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<strong>原文</strong>
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<span style="font-size:90%">青常事（つづき）<br />
殿上人ども、「かく起請をやぶりつるは、いと便なきことなり」とて、「いひ定めたるやうに、すみやかに酒、くだ物とりにやりて、このことあがへ」と、あつまりて、責めのゝしりければ、あらがひて、「せじ」とすまひ給けれど、まめやかにまめやかに責めければ、「さらばあさてばかり、青常（あをつね）の君のあがひせん。殿上人、蔵人、その日あつまり給へ」といひて出給ひぬ。<br />
その日になりて、「堀川中将殿の、青常の君のあがひすべし」とて、参らぬ人なし。殿上人ゐならびて待程に、堀川中将、直衣すがたにて、かたちは光るやうなる人の、香はえもいはずかうばしくて、愛敬こぼれにこぼれて、参り給へり。直衣のながやかにめでたき裾より、青き打たる出し衵（あこめ）して、指貫も青色の指貫をきたり。隨身三人、青き狩衣、袴着せて、ひとりには、青くいろどりたる折敷に、あをぢのさらに、こくはを、盛りてさゝげたり。今一人は、竹の杖に、山ばとを四五斗つけて持せたり。又ひとりには、あをぢの瓶に酒を入て、あをき薄様（うすやう）にて、口をつゝみたり。殿上の前に、もちつゞきて出たれば、殿上人どもみて、諸声に笑ひどよむことおびたゝし。御門、きかせ給て、｢何事ぞ。殿上におびたゝしく聞ゆるは｣と問はせ給へば、女房｢兼通が、青常よびてさぶらべば、そのことによりて、をのこどもに責められて、その罪あがひ候を、笑候なり｣と申ければ、「いかやうにあがひぞ」とて、昼御座（ひのおまし）にいでさせ給て、小蔀（こじとみ）よりのぞかせ給ければ、われよりはじめて、ひた青なる装束にて、青き食ひ物どもを持たせて、あがひければ、これを笑ふなりけりと御覧じて、え腹だゝせ給はで、いみじう笑はせ給けり。<br />
その後は、まめやかにさいなむ人もなかりければ、いよいよなん笑あざけりける。</span><br />
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<strong>適当訳者の呟き：</strong><br />
ひどい。。。<br />
貴族のいじめ伝統。平家物語で忠盛の「すがめ」を馬鹿にする程度、何てことは無いのですね。<br />
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<strong>堀川中将（補足）：</strong><br />
関白・藤原兼通は、兄の伊尹、弟の兼家と激烈な権力闘争を行っているので（特に弟との争いは醜い）、「青常」といってしまった失言を若手からボロクソに言われるのも、多少関係していたかもしれません。「この俺が青常といったが、それがどうした」と開き直るあたりも。<br />
ちなみに村上天皇の頃、天徳４年（西暦９６０年）に内裏が焼けています。殿上人たちの笑い声が帝のお耳に入るというわけで、兼通の屋敷が里内裏になっていたのかもしれません。
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<strong>こくわ：</strong><br />
猿梨。ミニキウイとか呼ばれまして、青い実を食べます。<br />
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<strong>山ばと：</strong><br />
きじ鳩。食用で、幸福の「青い鳥」のモデルとも言われてますので、青いですね。<br />
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			</description>
			<link>http://edosoko.edoblog.net/Entry/274/</link>
			<pubDate>Mon, 16 Apr 2012 00:42:53 GMT</pubDate>
		</item>

		</channel>
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