昔、袴垂という、たいそうな盗人の大将軍がいた。
この袴垂が十月ごろ、着るものが乏しくなったので、
誰ぞから頂戴しようと、あちこち窺い歩いていると、
夜中、人がみんな寝静まった後、
ぼんやりした月あかりの下、
笛を吹きながら行く、
狩衣めいた恰好で、たくさんの着物を着込んだ男を見つけた。
「これはすばらしい。私に着物を与えようとしているようだ」
と思い、そのまま飛びかかって着物を剥ぎ取ろうとしたが、
どうも恐ろしいような気がして、ひそかに尾行すること、二、三町。
相手は、こちらの尾行に気づいた様子もなく、いよいよ笛に没入しているので、
今だとばかりに、足音高く、背後から走り寄った。
が、笛を吹きつつ振り返ったその相手の気色に、
襲いかかることもできず、袴垂はそのまま走り去るしかなかった。
そして、こんなことを何度か繰り返してみたが、
相手は、少しも動揺した様子を見せない。
「すごい奴だ」
と思い、さらに十余町、つけ狙って、
「いや、そんなことはない!」
とばかりに、刀を抜いて飛びかかれば、
この時はじめて相手は笛を口から離し、振り返った。
「おまえは何者か」
そう問われるや、袴垂は気も心も失せて、へなへなと答えられないでいると、
「何の用か」
と再度、問われたため、
「もう逃げてもダメだ」
と思い、
「追剥ぎ、盗人です」
「名は」
「袴垂と呼ばれております」
そう答えると、
「なるほど、そういう者があると聞く。危ない真似をする奴だ」
と言って、
「とにかく、わしについて来い」
と、男は前のように笛を吹いて歩き出した。
この態度に、
「もはや逃げようとしても逃げられぬ」
と観念し、袴垂は鬼神に魅入られたようになって、男の屋敷へとやって来た。
屋敷を見れば、摂津前司、藤原保昌の家である。
中へ通された袴垂は、保昌より綿厚の衣を一枚、与えられ、
「着物が足りぬ時は、当家へ来い。
相手を知らずに挑みかかり、過ちを犯すな」
と諭された。
この時ほど、すさまじく恐ろしいことは無かった、
保昌はそれほどすさまじい人であったと、
捕らえられた後、袴垂が人に語ったそうである。
原文
袴垂合保昌事
昔、袴垂(はかまだれ)とていみじき盗人の大将軍ありけり。十月ばかりに衣(きぬ)の用なりければ、衣(きぬ)少しまうけんとて、さるべき所々窺(うか が)ひ歩(あり)きけるに、夜中ばかりに人皆しづまり果てて後(のち)、月の朧(おぼろ)なるに、衣(きぬ)あまた着たりけるぬしの、差貫(さしぬき)の 稜(そば)狭ばみてきぬの狩衣(かりぎぬ)めきたる着て、ただ一人(ひとり)笛吹きて行きもやらで練(ね)り行(ゆ)けば、「あはれ、これこそ我に衣(き ぬ)得させんとて出でたる人なめり」と思ひて、走りかかりて衣(きぬ)を剥(は)がんと思ふに、あやしく物の恐ろしく覚えければ、添ひて二三町ばかり行け ども、我に人こそ付きたれと思ひたる気色(けしき)もなし。いよいよ笛を吹きて行けば、試みんと思ひて、足を高くして走り寄りたるに、笛を吹きながら見か へりたる気色、取りかかるべくも覚えざりければ、走り退きぬ。
かやうにあまたたび、とざまかやうざまにするに、露(つゆ)ばかりも騒ぎたる気色なし。「希有(けう)の人かな」と思ひて、十余町ばかり具(ぐ)して行 く。「さりとてあらんやは」と思ひて刀を抜きて走りかかりたる時に、その度(たび)笛を吹きやみて立ち返りて、「こは何者ぞ」と問ふに、心も失(う)せ て、吾(われ)にもあらでついゐられぬ。また、「いかなる者ぞ」と問へば、「今は逃ぐともよも逃がさじ」と覚えければ、「引剥(は)ぎに候(さぶら)ふ) といへば、「何者ぞ」と問へば、「字袴垂(あざなはかまだれ)となんいはれ候ふ」と答ふれば、「さいふ者ありと聞くぞ。危(あやふ)げに希有のやつかな」 といひて、「ともにまうで来(こ)」とばかりいひかけて、また同じやうに笛吹きて行く。この人の気色、「今は逃ぐともよも逃さじ」と覚えければ、鬼に神取 られたるやうにて共に行く程に、家に行き着きぬ。いづこぞと思へば、摂津前司保昌(やすまさ)といふ人なりけり。家の内に呼び入れて、綿厚き衣(きぬ)一 つ賜りて、「衣(きぬ)の用あらん時は参りて申せ。心も知らざらん人に取りかかりて、汝(なんじ)過(あやま)ちすな」とありしこそあさましく、むくつけ く、恐ろしかりしか。いみじかりし人の有様なり。捕へられて後(のち)語りける。
適当訳者の呟き:
笛を吹きつつ行くのがカッコイイ。
袴垂:
はかまだれ。袴垂保輔(はかまだれやすすけ)と言われる大盗賊です。
正体は、日本史上初の切腹が記録に残ってる、藤原保輔という公卿みたいです。
源雅信の土御門殿で開かれた大饗で、藤原季孝に対して傷害事件を起こし、さらに、以前、兄の藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良へ矢を放ったり、はたまた、藤原景斉、茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの悪行を重ねたため懸賞首になった――そうです。
そしてこの藤原保輔さん=袴垂保輔の兄こそが、笛の人、摂津前司・藤原保昌。
摂津前司保昌:
ふじわらのやすまさ。
藤原道長の四天王とか呼ばれて、たいそう有能。奥さんは、和泉式部。
というわけで、兄弟がこんなふうな対面をするのはおかしい、袴垂と藤原保輔は別人であろう――ということがwikipediaに書いてありましたが、適当訳者的には、こういう兄弟の対面があっても、おかしくは無いと思いました。
少なくとも、保輔の兄には、藤原斉明という悪党がいたとありますし。
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