これも今は昔、太政大臣の堀川兼通という人が、極めて重い病気にかかった。
さまざまな祈禱がなされて、世の僧侶たちで参上しない者はないというほどになり、
お屋敷へ参上し、集っては御祈禱したので、賑やか、騒々しいこと限りなしであった。
ところで、極楽寺というのは、この殿下がお建てになったものだが、
そのお寺に住む僧侶たちは、
「御祈禱せよ」
という仰せがないため、誰も参上しなかった。
そんな時、この極楽寺の一人の僧侶が思ったのは、
(このお寺に住することができるのは、殿下のおかげだ。
殿下がお亡くなりになれば、我らとてこのままではいられるはずがない。
お呼びがないとはいえ参上するべきではないか)
それで、この僧は仁王経を持ってお屋敷へ参上し、
中は色々と騒がしいので、中門の北の廊の隅へかがみ込んで、
誰もそれを目にする者もない状態で、脇目も振らず、仁王経を読み続けた。
ふた時ほどして、病床の兼通の大臣が仰せになるには、
「極楽寺の僧で、なになにの大徳はいるか」
と尋ねるので、ある人が、
「中門の脇の廊下におりましたが」
と答えると、
「ではこちらへ呼べ」
と仰せになる。
人々は不思議に思い、各方面の高僧を招くのではなく、
この場へ招くのさえふさわしくない者を、なぜ招くのかと考えたが、
呼べと仰せになるので、ともかく行って、来るように告げると、
僧侶は参上して、高僧たちが居並ぶ、さらに後ろの縁側にひれ伏した。
と、兼通大臣。
「そろそろ参ったか」
と言うので、人が、南の簀子のところへ控えていると告げると、
「内へ呼び入れよ」
と命じて、自分が寝ているところへと召した。
兼通大臣は、物も言うにも苦しいほどの重病人であったが、
この僧侶を招いた途端、顔の色も良く、具合が良くなったように見えたので、
人々が不思議に思っていると、
「わしが寝ている間の夢に、恐ろしげなる鬼どもが、我が身を順番に打ち据えていた。
そこへ角巻髪を結った童子が細杖を手に中門の方から来て、杖で鬼どもを打ち払ったのだ。
鬼どもはみな逃げ散り、わしが『いかなる童子の仕業か』と尋ねれば、
『極楽寺の誰それが、汝が病気で苦しまれていると実に嘆き悲しみ、
今朝方より中門の脇に来て、長年読み奉るところの仁王経を一心に読み続け、祈禱しています。
その聖の護法が、あのように苦しめる悪鬼どもを追い払ったのです』
こう話したと思うと、わしは夢から覚めて、
何やらに曇りがぬぐわれたように気分が良くなった。
その喜びを伝えようと思い、あなたをここへ呼んだのです」
そうして、手を摺り合わせてこの僧侶を拝むと、
棹にかかっていた御衣を取らせて、この僧侶へ着せかけた。
「寺へ戻り、いっそう御祈りのことをいたせ」
そう仰せになったから、僧侶は喜び、退出した。
それを見送る僧侶、俗人たちはたいへんありがたがって、
最初は彼が中門の脇で一日中かがみこんでいたときには、気づく者さえ無かったのが、
今はことのほか美々しい姿で退出することになった。
そういうわけで、人の祈りとは、僧侶の浄不浄には依らないのである。
ただ一心に念じることで、効験がある。
「祈りとは、母の尼のような心でするべし」
と、昔から言い伝えられているのも、そういう意味なのである。
原文
極楽寺僧仁王経の験を施す事
これも今は昔、堀川兼道公太政大臣と申す人、世心地大事に煩ひ給ふ。御祈どもさまざまにせらる。世にある僧どもの参らぬはなし。参り集ひて御祈どもをす。殿中騒ぐ事限なし。
ここに極楽寺は、殿の造り給へる寺なり。その寺に住みける僧ども、「御祈せよ」といふ仰もかなりければ、人も召さず。この時にある僧の 思ひけるは、御寺にやすく住む事は、殿の御徳にてこそあれ。御失せ給ひなば、世にあるべきやうなし。召さずとも参らんとて、仁王経を持ち奉りて、物騒がしかりければ、中門の北の廊の隅にかがまり居て、つゆ目も見かくる人もなきに、仁王経他念なく読み奉る。
二 時ばかりありて、殿仰せらるるやう、「極楽寺の僧、なにがしの大徳(だいとこ)やこれにある」と尋ね給ふに、ある人、「中門の脇の廊に候」と申しければ、 「それ、こなたへ呼べ」と仰せらるるに、人々怪(あや)しと思ひ、そこばくのやんごとなき僧をば召さずして、かく参りたるをだに、よしなしと見居たるをしも、召しあれば、心も得ず思へども、行きて、召す由をいへば参る。高層どもの着き並びたる後の縁に、かがまり居たり。「さて参りたるか」と問はせ給へば、南の簀子(すのこ)に候よし申せば、「内へ呼び入れよ」とて、臥し給へる所へ召し入れらる。無下に物も仰せられず、重くおはしつるに、この僧召す程の御気色、こよなくよろしく見えければ、人々怪しく思ひけるに、のたまふやふ、「寝たりつる夢 に、恐ろしげなる鬼どもの、我が身をとりどりに打ちれうじつるに、びんづら結ひたる童子の、木若ずはえ持ちたるが、中門の方より入り来て、木若してこの鬼どもを打ち払へば、鬼どもみな逃げ散りぬ。『何ぞの童のかくはするぞ』と問ひしかば、『極楽寺のそれがしが、かく煩はせ給ふ事、いみじう歎き申して、年来読み奉る仁王経を、今朝より中門の脇に候ひて、他念なく読み奉りて祈り申し侍る。その聖(ひじり)の護法の、かく病ませ奉る悪鬼どもを、追ひ払ひ侍るなり』と申すと見て、夢覚めてより、心地のかいのごふやうによければ、その悦(よろこび)いはんとて、呼びつるなり」とて、手を摺りて拝ませ給ひて、棹にかかりたる御衣を召して、被け給ふ。「寺に帰りてなほなほ御祈よく申せ」と仰せらるれば、悦びてまかり出づる程に、僧俗の見思へる気色やんごとなし。中門の脇に、ひめもすにかがみ居たりつる、おぼえなかりしに、殊の外美々しくてぞまかり出でにける。
されば人の祈は、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。ただ心に入りたるが験あるものなり。「母の尼して祈をばすべし」と、昔より言ひ伝へたるも、この心なり。
適当訳者の呟き
名前が残っていないところを見ると、完治はしていないのかもしれません。
兼通晩年の大病の折(死の直前)の出来事かと思いました。
堀川兼道太政大臣
藤原兼通。有名な道長さんからすると、伯父(父の兄)に当ります。
弟の兼家(道長の父親)とたいへん仲が悪く、常にいがみあっていて、晩年、兼通が病を得て倒れると、兼家がいそいそと宮中で奏上、と、そこへ病を押して、家来に抱きかかえられながら兼通さんが参内し、執念の除目を行って、とりあえず兼家を降格させることに成功したそうです。
(けれどもその後、兼通さんの死後に兼家復権。結局兼家さんの息子、道長が、摂関政治の歴史で勝利者となります)
極楽寺
今は伏見区の宝塔寺というのが、その前身。
鎌倉末期に日蓮宗に改め、名前も変えたみたいです。
僧侶の名前が載っていれば、極楽寺の宣伝になったのでしょうが、惜しかったですね。
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