これも今は昔、もろこしに、柳下恵(りゅうかけい)という人がいた。
世に優れた人物で、人々から重く用いられていた。
この柳下恵の弟に、盗跖(とうせき)という人があった。
とある山の懐深くに済んで、招き集めたさまざまな悪党を傍に置いて、
人の物を自分の物とする悪行を重ねていた。
盗跖が出歩けば、二三千という供の者がついて歩いて、
道に行き会う者を滅ぼし、恥をかかせ、よからぬことの限りを好んで日々を送っていた。
さてある時、柳下恵が、どこかへ行く途中で孔子に行き会った。
孔子が、
「どこへ行かれるのですか。わたくしの方から参り、
教えしようと思うこともありましたので、良いところでお会いできました」
そういうと、下恵は、
「いかなる事でしょう」
「教えしようと思うのは、あなたの御舎弟のことです。
彼はもろもろ悪の限りを好み、多くの人を嘆かせているが、どうしてそれを止めないのか」
柳下恵が答えるには、
「わたくしの申すことなど、決して聞き入れる弟ではありません。
それゆえ、わたくしも嘆きながら、年月を送っているというわけです」
孔子曰く、
「あなたが教えぬのなら、私が行って教えましょう。いかがですか」
「決して、おいでになってはなりません。
すばらしい言葉を尽くして教えても、心を入れ替えるような者ではありません。
むしろ良くないことも起きましょう。そのようなことはお止めください」
「悪人とて、人間の肉体を得た以上、おのずから良いことに従うこともあるはず。
それに、『これはだめだ、けっして聞かない』ということは、まあ無いことです。
見てなさい。教えてきましょう」
と、言葉を放って、盗跖のもとへ出かけた。
さて馬から降り、門に立って見ると、
ありとあらゆるもの、獣に鳥を殺戮し、さまざまな悪行を重ねたさまが見られた。
孔子、そこにいた者を呼び、
「魯の国の孔子というものが参った」
と伝えさせて、中へ入った。
さて輩下の者からこれこれと聞いた盗跖は、
「孔子とは、音に聞いた者だ。何事があって来たのか。人にものを教える者だと聞くが、
わしを教えに来たのか。よし、もしそれが我が心にかなうなら、言うことを用いよう。
だが我が心に適わぬなら、肝をなますにしてしまえ」
と言葉も荒くしている、ところへ孔子が進み出て、
庭先に立ち、まずは盗跖を拝み、座についた。
さてこの盗跖はと見れば、頭の髪は上向きに逆立ち、蓬(よもぎ)のように乱れている。
目は大きく、こちらを凝視し、鼻息を吹き怒らして牙を噛み、
しかも、輩下の者に髭を剃らせているところであった。
盗跖曰く、
「汝が来た理由は何だ。しかと申せ」
と、怒声高く、恐ろしく言う。
孔子が内心で思うには、
(かねて聞いていたことだが、これほどおそろしい者だとは思わなかった。
姿かたち、声、およそ人間とも思えぬ)
と、肝も心もくだけて、震えが出るほどだったが、強く思いを込めて言った。
「人の世のありようは、道理を自分自身の飾りとし、心を己の掟とするものです。
天をいただき地を踏み、四方をかためとして、おおやけを敬い奉る。
下々の者を憐れみ、人に情けを致す――そういうことを為すものです。
聞くところによれば、心の欲するままに、悪しきことのみをするのは、
一時は自分の心に叶うようであっても、ついには悪しき結果をもたらすとか。
それゆえ人は、善に従うことを、良しとするのです。
それゆえ、あなたも私の言葉に従って行動すべきであると、そのことを告げに来たのです」
そのように孔子が言うやいなや、盗跖は雷鳴のごとき声で大笑いした。
「おまえの言うことは一つも当たらぬ。その理由を言おう。
昔、堯舜という二人の帝がいて、世の人に尊ばれていた。
しかるに、その子孫には、この大地に針を刺すばかりの所領も残されておらぬ。
また、世に賢き者として、伯夷、叔斉というのがいたが、これも首陽山に行き倒れ、飢え死にした。
ところでおまえの弟子に、顔回というのがいて、賢いことを教え広めていたが、
不幸にして短命で死んだな。
それから子路というのもあったが、衛の国に仕えて殺された。
こうして見れば、賢い輩と言っても、結局のところ賢いものでなし、
わしもまた、悪しきことを好むが、災いが我が身にふりかかりもせぬ。
人から褒められるのも、せいぜい四五日に過ぎぬ。
悪しきことも良きことも、長く褒められもせず、長くそしられもしないのだ。
ゆえにわしは、我が好むところに従って、生きるだけのこと。
おまえは木を折って冠にし、皮をもって衣にし、公権力におびえているようだが、
二度も故郷の魯国から追い出され、衛の国からも足跡を削られている。
どこが賢いものか。おまえの言うところは、まことに愚かである。
すみやかに走り帰れ。一つとして用いるところはない」
そう言うと、孔子はもう継げる言葉が無くて、座を立ち、
いそいで外へ出ると馬へ乗り、よくよくおびえていたのだろう、
轡を二度も取り損ない、あぶみまで踏み外して立ち去るのだった。
これを世の人は、「孔子倒れす」と言うのである。
原文
盗跖と孔子と問答の事
これも今は昔、もろこしに、柳下恵(りうかくゑい)とうふ人ありき。世のかしこき者にして、人に重くせらる。其おとうとに、盗跖と云ものあり。一の山のふところに住て、もろもろのあしき者をまねき集て、おのが伴侶として、人の物をば我物とす。ありくときは、此あしき者どもを具する事、二三千人なり。道にあふ人をほろぼし、恥を見せ、よからぬことの限を好みて過すに、柳下恵、道を行時に、孔子にあひぬ。
「いづくへおはするぞ。自(みづから)對面して聞えんと思ふことのあるに、かしこくあひ給へり」と云。柳下恵「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞こえむと思ふ事は、そこの舎弟、もろもろのあしきことの限りをこのみて、多くの人を嘆かする、など制し給はぬぞ」。柳下恵、答て云、「おのれが申さむことを、あへて用べきにあらず。されば嘆ながら年月を経る也」といふ。孔子のいはく、
「そこ教へ給はずは、われ行て教へん。いかがあるべき」。柳下恵云、「さらにおはすべからず。いみじき言葉をつくして教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返てあしき事いできなん。有べき事にあらず」。孔子云、「あしけれど、人の身をえたる者は、おのづからよきことをいふにつく事もある也。それに、「あしかりなん、よも聞かじ」といふ事は、ひがごと也。よし、見給へ。教へて見せ申さん」と、言葉をはなちて、盗跖がもとへおはしぬ。
馬よりおり、門にたちて見れば、ありとあるもの、しし、鳥をころし、もろもろのあしき事をつどへたり。人をまねきて、「魯の孔子と云ものなん参りたる」と、いひ入るるに、即使かへりていはく、「音にきく人なり。何事によりて来れるぞ。人を教ふる人と聞。我を教へに来れるか。わが心にかなはば、用ひん。かなはずは、きもなますにつくらん」と云ふ。其時に、孔子すすみ出て、庭にたちて、先盗跖をおがみて、おぼりて座につく。盗跖をみれば、頭の髪は上ざまにして、みだれるたること蓬(よもぎ)のごとし。目大にして、見くるべかす。鼻をふきいからかし、きばをかみ、髭をそらしてゐたり。
盗跖が云、「汝来れる故はいかにぞ。慥に申せ」と、いかれる聲の、たかく、恐ろしげなるをもていふ。孔子思給、かねても聞きしことなれど、かくばかりおそろしき者とは思はざりき。かたち、有様聲迄、人とはおぼえず。きも心もくだけて、ふるはるれど、思ひ念じていはく、「人の世にある様は、道理をもて、身のかざりとし、心のおきてとするもの也。天をいただき、地をふみて、四方をかためとし、おほやけをうやまひ奉る。下を哀みて、人になさけをいたすを事とするもの也。しかるに、承れば、心のほしきままに、あしき事をのみ事とするは、當時は心にかなふやうなれども、終りあしきものなり。されば猶、人はよきにしたがふをよしとす。然れば申にしたがひていますかるべきなり、其事申さむと思ひて、参りつるなり」といふときに、盗跖、いかづちのやうなる聲をして、笑ていはく、「なんぢがいふ事ども、一もあたらず。其故は、昔、堯舜と申二人のみかど、世にたうとまれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所をしらず。又、世にかしこき人は、伯夷、叔齊なり。首陽山にふせり、飢ゑ死き。又、そこの弟子に、顔囘といふものありき。かしこく教へ給しかども、不幸にして、いのちみじかし。又、おなじき弟子にて、子路といふものありき。衛の門にしてころされき。しかあれば、かしこき輩は、つひに賢き事もなし。我又、あしきことを好めども、災、身に来らず。ほめらるるもの、四五日に過ず。あしき事もよきことも、ながくほめられ、ながくそしられず。しかれば、わが好みに髄、ふるまふべき也。汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世をおそり、おほやけにおぢたてまつるも、二たび魯にうつされ、あとを衛にけづらる。などかしこからぬ。汝がいふ所、まことにおろかなり。すみやかに、はしりかへりぬ。一も用ゆべからず」と云時に、孔子、また云べきことおぼえずして、座をたちて、いそぎ出て、馬に乗給ふに、よく憶しけるにや、轡を二たびはづし、あぶみをしきりにふみはづす。
これを、世の人「孔子倒れす」と云なり。
適当訳者の呟き
最終話! 孔子けちょんけちょん。
最後の最後だから、教訓めいた説教で締めくくると思いきや、孔子けちょんけちょんで終りました。
宇治拾遺物語の最終話にふさわしい、かどうかは読者次第ですね。
孔子
いわずと知れた神様で、中国共産党なども、「孔子学院」なんちゅって、中国文化の布教とスパイ活動に積極利用してますが、宇治拾遺(元ネタ荘子)では、とりあえず、ケチョンケチョンです。
孔子の年表を見ると、26才くらいで魯に仕官し、34才頃で主君の魯の昭公がクーデターに失敗し、主とともに斉に亡命。そのうち帰国し、何だかんだあって魯に再び仕官。
手柄を立てたり、政敵とゴタゴタしたりして、56才で魯を去って外遊、衛の国に移動。それから、各地を遊説して歩く。と、衛の国に内乱があって、ゴタゴタするうちに、魯に帰る。。。となっています。
追い出されたかどうかはともかく、盗跖が言うことは、事項的にはそれほどは間違っていないです。
宇治拾遺の孔子ネタは、他に、
(90) 帽子の叟、孔子と問答の事
(152) 八歳童孔子と問答の事
盗跖
とうせき。春秋・戦国時代の盗賊で、中国では盗賊の代名詞扱い。
兄が官吏だという点、ちょうど、日本の
袴垂と藤原保昌が元ネタに使った感じかもしれません。
この元ネタ荘子雑篇「盗跖」に、これの詳細が乗っていまして、そこでは兄の名は柳下季。
筋書きは同じで、宇治拾遺は、荘子の話をかいつまんで、よくまとめていると思います。
顔回
孔子の弟子で、「一を聞いて十を知る者」。
孔子の教えに忠実に生き、質素につつましく生きた挙句、師匠よりも早死にしたので、惜しまれました。
子路
これも孔子の弟子で、もとは屠殺場をごろついていたやくざ。血の気が多いので、孔子は心配していたようです。孔子の推薦で衛の国に仕官しますが、内乱で殺された挙句、死体を塩漬けにされます。
[18回]
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