これも今は昔、法輪院というところの大僧正で、覚猷という人がいた。
その甥で、陸奥前司・国俊が、僧正のもとを訪れ、
「国俊が参ったと取り次いでください」
というと、
「すぐに参るとのことです。そこでしばらくお待ちください」
そういわれたので、しばらく待っていたが、3-4時間経っても出てこない。
国俊は腹立たしくなって、
「もう帰ろう」
と思い、お供の雑色を呼びつけ、
「靴を持って来い」
といい、持って来たものを履くと、
「帰るぞ」
だが、お供の雑色はこんなことを言う。
――僧正さまが、
『陸奥殿が、早く車に乗れと申されておる。
だからその車をこちらへ引いて来なさい。そこの小門から出るから』
そう仰るので、何か御用があるのだろうと、牛飼いを乗せると、
『陸奥殿には待つようお伝えしろ。大した時間はかからないよ。すぐに戻る』
とのことで、僧正さまはお車でお出になりました。
かれこれ1-2時間になります。
そんな報告を受けた国俊は、
「おまえは間の悪い奴だ。車を僧正がお使いになるとのことですがと、
どうしてわしに伝えに来ないのか。不覚な奴め」
と言うと、
「お止めして、止るようなお方ではございません。
強引に、しかと申しつけたぞ、と仰せになるので、私では力及びませんでした」
とのことで、国俊は仕方なく部屋へ戻り、
どうしてやろうかと思った。
【つづき】
原文
鳥羽僧正与国俊たはぶれ
これも今は昔、法輪院(ほふりんゐん)大僧正覚猷(かくいう)といふ人おはしけり。その甥に陸奥前司、国俊、僧正のもとへ行きて、「参りてこそ候へ」といはせければ、「只今見参すべし。そなたにしばしあはせ」とありければ、待ちゐたるに、二時(ふたとき) ばかりまで出であはねば、生腹立たしう覚えて、「出でなん」と思ひて、供に具したる雑色を呼びければ、出で来たるに、「沓持て来」といひければ、持て来たるをはきて、「出でなん」といふに、この雑色がいふやう、「僧正の御坊の、『陸奥殿に 申したれば、疾う乗れとあるぞ。その車率て来』とて、『小御門より出でん』と仰せ事候ひつれば、『やうぞ候ふらん』とて、牛飼乗せ奉りて候へば、『侍たせ給へと申せ。時の程ぞあらんずる。やがて帰り来んずるぞ』とて、早う奉りて出でさせ給ひつるにて候ふ。かうて一時には過ぎ候ひぬらん」といへば、「わ雑色は不覚のやつかな。『御車をかく召しの候ふは』と、我にいひてこそ貸し申さめ。不覚なり」といへば、「うちさし退きたる人にもおはしまさず。やがて御尻切奉りて、『きときとよく申したるぞ』と、仰せ事候へば、力及び候はざりつる」といひければ、陸奥前司帰り上りて、いかにせんと思ひまはすに、
適当訳者の呟き
つづきますー。
覚猷大僧正:
かくゆうだいそうじょう。鳥羽僧正。天喜元年(1053年) - 保延6年9月15日(1140年10月27日)
かえるやうさぎが相撲をとる、鳥獣戯画の作者です。
いたずら大好き! 色々と、お茶目な逸話が残ってます。
宇治拾遺物語の作者といいますか、編者・宇治大納言隆国さんの九男でもあります。
陸奥前司国俊:
むつのぜんじくにとし。検索すると、宇治大納言・隆国さんの息子の一人だと出てきます。
また、承徳2(1098)年8月28日、源国俊が陸奥守に任官(翌年すぐに別の人がが陸奥守に任官)――とも出てきますので、この人っぽいですが、甥なのか、兄弟なのかは不明です。
ちなみに、「前司」は、前任の国司になるので、この物語は、国俊さんがやめて、次の次の国司が任官するまでの間――つまり、1099年~1103年の間に起きた出来事ということができますね。
院政が始まり、武士がそろそろ威張り始める――そんな時期です。
[2回]
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