今は昔、秦の始皇帝の時代に、天竺から僧侶が渡来した。
始皇帝は不審に思い、
「汝はいかなる者か。どうしてやって来たのだ」
僧侶が答えるには、
「これは釈迦牟尼仏の御弟子である。仏法を伝えるため、はるか西天より来たものである」
このように申し上げると、始皇帝は腹を立てた。
「そんな姿からして、胡散である。頭の髪を剃り、衣姿が人々と異なっている。
仏の弟子、などと申すが、仏とは何だ。怪しからん奴め。
ただ追い返すのではなく、牢獄へ押し込めよ。
今後、このように胡乱なことを申す者があれば、殺してしまえ」
そのように言い放ち、僧侶を牢獄へ入れると、
「深く閉じ込めて、重く縛り付けておけ」
という宣旨を下してしまった。
これを受け、牢獄の官吏が、宣旨のまま僧侶を重罪人の部屋へ閉じ込め、
戸へたくさんの錠をさした。
さて閉じ込められた僧侶。
「悪王に遭い、このように悲しき目を見る。我が師匠、釈迦牟尼如来。
滅後であっても我がありさまは、明らかにご覧になっているでしょう。
どうか我を助けたまえ」
そのように念じていると、
夜、釈迦仏が丈六の姿となって紫磨黄金の光を放ちながら空から飛来、
牢獄の門を踏み破ったと思うと、この僧侶を連れ去ったのである。
このついでに、多くの盗賊どもがみな逃げ散った。
牢獄の官吏。
空に物音がしたので出てみれば、金色に光る大きな僧侶が空から飛来、
牢獄の門を踏み破り、閉じ込めた天竺僧を連れ去るところだったから、
このことを皇帝に言上すれば、皇帝はたいへん恐れ入ったという。
このようにして、秦の時代に伝来しかけた仏法は、時代が下って漢代に渡来したのである。
原文
秦の始皇、天竺より来たる僧禁獄の事
今は昔、唐(もろこし)の秦始皇の代に、天竺より僧渡れり。御門あやしみ給ひて、「これはいかなる者ぞ。何事によりて来たれるぞ」。僧申して曰く、「釈迦牟尼仏の御弟子なり。仏法を伝へんために、遙に西天より来たり渡れるなり」と申しければ、御門腹立ち給ひて、「その姿きはめて怪し。頭の髪禿(かぶろ)なり。衣の体人に違へり。仏の御弟子と名のる。仏とは何者ぞ。これは怪しき者なり。ただに返すべからず。人屋に籠めよ。今より後、かくのごとく怪しき事いはん者をば、殺さしむべきものなり」といひて、人屋に据ゑられぬ。「深く閉ぢ籠て、重くいましめて置け」と宣旨を下されぬ。
人屋の司の者、宣旨のままに、重く罪ある者置く所に籠めて置きて、戸にあまた錠さしつ。この僧、「悪王にあひて、かく悲しき目を見る。我が本師釈迦牟尼如来、滅後なりとも、あらたに見給ふらん。我を助け給へ」と念じ入りたるに、釈迦仏、丈六の御姿にて、紫磨黄金(しまわうごん)の光を放ちて、空より飛び来たり給ひて、この獄門を踏み破りて、この僧を取りて去り給ひぬ。その次(ついで)に、多くの盗人どもみな逃げ去りぬ。獄の司、空に物の鳴りければ、出でて見るに、金の色したる僧の、光を放ちたるが、大さ丈六なる、空より飛び来たりて、獄の門を踏み破りて、籠められたる天竺の僧を、取りて行く音なりければ、この由を申すに、帝、いみじくおぢ恐り給ひけりとなん。その時に渡らんとしける仏法、世下りての漢には渡りけるなり。
適当訳者の呟き
釈迦さん無敵です。
丈六
1丈6尺。4.85メートル。
お釈迦様の身長。仏像で、これより大きいサイズが、「大仏」に分類されます。
仏教伝来
中国大陸へ仏教が伝来したのは、西暦だと67年、後漢の明帝のころだとされていますが、この前後に、シルクロード商人経由で仏教文化が入って来たようです。
お釈迦様の入滅は、紀元前544-386年のどこかで、始皇帝の皇帝在位期間は紀元前221-210です。
今昔物語集
今昔物語集の6巻「震旦付仏法」というところに、もう少し詳しく載ってまして、僧侶の名前が「釈ノ利房」であるとか、十八人の賢者を伴っていて、みんな牢獄へつながれるけれど、無敵の釈尊のおかげで全員無事に逃れることができた――という、スッキリした話になってます。
個人的には、「盗人どもみな逃げ去りぬ」のアレンジも好きですが。
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