今は昔、比叡山無動寺に、相応和尚という人がいた。
彼は比良山の西、葛川の三滝というところにも通って、修行を積んでいた。
ある時、その滝の中で、和尚が不動明王へ頼み込むには、
「どうか私を背負って、都卒天の内院、弥勒菩薩のもとへ連れて行ってください」
一心に願っていると、
「まことに難しいことではあるが、強いて頼むことなので、
連れて行こう。その尻を洗え」
という返事なので、和尚は滝の前に出て水を浴び、
尻をよく洗って不動明王の頭へ乗ると、都卒天へのぼった。
さて上に着いてみると、内院の門の額に、
「妙法蓮華」
と書かれている。
不動明王が仰るには、
「ここへ入る者は、この経文を唱えてから入れ。唱えねば入れぬ」
だが相応和尚は、天を仰ぎ見て、
「わたくし、この経文は読むことはできますが、未だ暗記し、唱えることまではできません」
という。
不動明王は、
「さても口惜しきこと。それでは門の内に入ることは叶わぬ。
帰って、法華経をよく学んだ後、参りたまえ」
ということで、ふたたび背負って葛川へ戻ったため、
和尚の嘆き悲しむことは限りなかった。
和尚はその後、本尊の御前で法華経を暗誦し、本意を遂げられたという。
そのときの不動尊は、今も無動寺に安置される等身大の像である。
さてこの相応和尚は、このように奇特を表す人物であったから、
帝の御后さまが、物の怪のため病にかかった際、ある人が、
「慈覚大師のお弟子の、無動寺の相応和尚という方こそ、貴い行者でいらっしゃいます」
と進言したため、呼ぶことになった。
それで相応和尚は御使者に従って参内し、中門までやって来たが、
人々がその姿を見れば、背の高い、鬼みたいな僧侶が、
安手の信濃布をまとい、これまた汚い杉の平足駄を履いて、
ゴツゴツした、だいもくげんじの数珠を手にしているから、
「そのような姿は、御前へ通せるようなものではない、そこらの下種法師そのものだ」
「とりあえず、そこの簀の子の辺に立って、加持祈祷のことをさせましょう」
と、一同で話し合って、
「階段の高欄の下で、立ったまま致しなさい」
と命じた。
相応和尚は言われたとおり、御階の東の高欄に寄りかかるようにして祈り始めた。
(つづく)
原文
相応和尚都卒天にのぼる事・染殿の后祈たてまつる事
今は昔、叡山無動寺に、相応和尚と云ふ人おはしけり。比良山(ひらさん)の西に、葛川の三瀧といふ所にも、通て行給けり。其瀧にて、不動尊の申給はく、「我を負ひて、都卒の内院、弥勒菩薩の御許に率て行給へ」と、あながちに申ければ、「極てかたき事なれど、強ひて申事なれば、率てゆくべし。其尻をあらへ」と仰ければ、瀧の尻にて、水あみ、尻よくあらひて、明王の頭に乗て、都卒天にのぼり給ふ。
こゝに、内院に門の額に、妙法蓮華とかゝれたり。明王のたまはく、「これへ参入の者は、此経を誦して入。誦せざればいらず」とのたまへば、はるかに見上て、相応のたまはく、「我、此経、読は読み奉る。誦すること、いまだかなはず」と。明王、「さては口惜事なり。其儀ならば、参入かなふべからず。帰て法華経を誦してのち、参給へ」とて、かき負ひ給て、葛川へ帰給ければ、泣かなしみ給事かぎりなし。さて本尊の御前にて、経を誦し給てのち、本意をとげ給けりとなん。その不動尊は、いまに無動寺におはします等身の像にぞましましける。
其和尚、かやうに奇特の効験おはしければ、染殿后、物のけに悩み給けるを、或人申けるは、「滋覚大師の御弟子に、無動寺の相応和尚と申こそ、いみじき行者にて侍れ」と申ければ、めしにつかはす。則御使につれて、参りて、中門にたてり。人々見れば、長高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布を衣にき、椙(すぎ)のひらあしだをはきて、大木げん子の念珠を持り。「その躰、御前に召上べき者にあらず。無下の下種法師にこそ」とて、「たゞ簀子(すのこ)の邊に立ながら、加持申べし」と、おのおの申て、「御階の高欄のもとにて、たちながら候へ」と仰下しければ、御階の東の高欄に立ちながら、押しかゝり祈奉る。
適当訳者の呟き
尻を洗う坊さんが素敵です。後半へつづく!
相応和尚
(831-918)天台宗。比叡山の円仁に学ぶ。12年間の籠山修行をし,加持祈祷にすぐれ皇室の信任をえた。不動明王を尊信し,貞観7年比叡山に無動寺をひらく。比叡山回峰行の祖とされる。近江出身。俗姓は櫟井(いちい)。通称は建立大師――だそうです。
信濃布
科の木(シナノキ)の樹皮を割いて、糸にして編んだごくごく粗末な布。
椙の平足駄
こちらも安物の下駄。
大木げん子
大木患子。ムクロジ科の落葉高木。実は昔から数珠にしたりしていたようです。直径は7ミリほど。実自体はそれほど大きいものではありませんね。
染殿
摂関政治の基礎を固めた、藤原良房。
藤原道長からすると、祖父の祖父の養父。
染殿の后
良房の娘で、文徳天皇の皇后さま。清和天皇の生母。
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