これも今は昔、
賀茂祭の供奉役に、下野武正と、秦兼行が任じられた。
さて、祭の行列が出た帰り、法勝寺殿こと藤原忠通が、
紫野で行列の様子をご見物になっているとのことで、
武正、兼行とも、我が殿様がご覧になる――と知って、
ことさらに身を取り繕い、先頭を歩いた。
まず武正が気負いに気負って通行する。
続けて兼行が通る。
どちらがすごいとは言いがたい。
それを忠通公、ご覧になって、
「今一度、北へ参って見せよ」
と仰せになるので、行列はまた北へ戻った。
とはいえ、ずっと北へ行くこともできないので、
再び南へ戻りかかる時、今度は、兼行が先に、南へさして通行した。
次いで、武正も通りかかるぞと人々が待ち構えていると、
これがなかなか現れない。
どうしたことかと思っていると、武正は、
やがて向い側に幔幕を引いたと思うと、
その向こう側を、東側へと渡って行くのである。
何をしているんだ、と見ていると、なるほど、幔幕の上に冠の先だけが見えて、
それが南へ渡って行くのが分ったから、人々は、
「なかなか、心がけある者のやり方だ」
と褒めたという。
原文
賀茂祭の帰り武正兼行御覧の事
これも今は昔、賀茂祭の供に下野武正(しもつけのたけまさ)、秦兼行(はたのかねゆき)遣はしたりけり。その帰さ、法性寺殿、紫野にて御覧じけるに、武正、兼行、殿下御覧ずと知りて、殊に引き繕ひて渡りけり。武正殊に気色して渡る。次に兼行また渡る。おのおのとりどりに言ひ知らず。
殿御覧じて、「今一度北へ渡れ」と仰ありければ、また北へ渡りぬ。さてあるべきならねば、また南へ帰り渡るに、この度は兼行さきに南へ渡りぬ。次に武正渡らんずらんと人々待つ程に、武正やや久しく見えず。こはいかにと思う程に、向ひに引きたる幔(まん)より、東を渡るなりけり。いかにい かにと待ちけるに、幔の上より冠の巾子(こじ)ばかり見えて、南へ渡りけるを、人々、「なほすぢなき者の心際なり」とほめけりとか。
適当訳者の呟き
ちと分りにくいですが、「同じものを二度も披露しません。道を変えて東へ向います――でも命令には背きません。幔幕を引いておけば、冠だけは南へ向っているように見えるでしょう?」ということです。
「心がけある」なんて言われますが、適当訳者は、正直、鬱陶しい奴だなあと思いました。
下野武正
とにかく主人のご機嫌取りに忙しい奴です。
巻八 (100)下野武正、大風雨の日、法性寺殿に参る事
こちらでは、嵐の夜に法勝寺殿の屋敷を警護してみせたりしてますし、ほかにも今昔物語で、法勝寺殿にうまいこと言って、まんまと他人の土地をせしめたりしてます。
秦兼行
同類。でもこの話でも、うまいところを持って行かれるなど、下野さんほどの強引さ、腰巾着ぶりは発揮できていなかった模様。
法勝寺殿
藤原忠通。二人の主人。
院政絶好調の頃の関白で、保元の乱の原因となる兄弟喧嘩をしたりしますが、勢力があるのは確かです。
紫野
京都の北。
今の賀茂祭(葵祭)のルートは、京都御所から下鴨、上賀茂神社へ行くだけみたいですが、昔はあちこち、好き勝手な方へ行っていたのですね。
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