(つづき)
一人を招き寄せて、
「これはいかなることだ。そのように堪え難きありさまなのは、どういうわけか」
大師がそう尋ねると、
男は木ぎれを手に、細い腕を差し出して、土に文字を書いた。
「これは纐纈城(こうけちじょう)なり。
ここへ来た者はまず物言わぬ薬を喰わされ、次に、太る薬を喰わされ、
その後は、高いところへ吊り下げられ、
ところどころを刺し切られて、血を流すことになる。
ここは、その血で纐纈すなわち、しぼり染めをして、その布を販売するところ。
それを知らず、私はこのような目に遭っているのです。
食べ物の中に、胡麻のように黒くなっているものがあるはずだが、
それこそが物言わぬ薬です。
そのようなものが出てきたら、喰う真似をして捨てなさい。
そうして誰かが何かを尋ねても、うめき声を上げるだけにするのです。
後は、どういう手段を遣っても仕度をして、逃げなさい。
門は固く閉ざされているから、容易には逃げることはできません」
そのように、くわしく教えられた大師は、
ともかく、あてがわれた部屋へ戻るのだった。
そのうちに、城の者が食べ物を運んできた。
教えられたとおりのものが中へ入っているから、
大師は、食べたようにしておいて懐へ入れ、後で捨てた。
そして人が来て、何かものを尋ねても、うめくだけで言葉は発しない。
連中は、これで出来たとばかりに、
肥える薬をさまざまにして食べさせようとするので、
大師は同じように食べる真似をして食べず、
人が立ち去った隙に、丑寅すなわち東北の方角へ額づき、
「我が山の三宝、助けたまえ」
と手を摺り合わせて祈祷するうち、
一匹の大きな犬が出てきて、大師の袖をくわえ、引っ張って行く。
これだと思い、引かれるまま出て行くと、
思いがけず水門のあるところから、引き出してくれて、
そうして外に出てみると、犬はいなくなっていた。
今はともかくと、足の向いた方角へ走って行くうち、
遙かな山を越えたところに人里があった。
出会った者が、
「これはどちらからいらっしゃった人が、そのように走っているのですか」
と尋ねるので、
「これこれのところへ行ったが、逃げてきたところだ」
と答えれば、
「何と、おどろきいったこと。それは纐纈城です。
あそこへ行って、帰った者はないのです。
容易ならぬ仏のお助けがなければ、出ることなど叶わなかったでしょう。
なんと、貴くいらっしゃる御人か」
そう言って、拝んで立ち去るのだった。
それから大師はとうとう逃げ延びて、ふたたび都へ入り、
息を潜めているうち、会昌六年に武宗皇帝が崩御、
翌大中元年、宣宗皇帝が即位して仏法を滅ぼすことが止んだので、
大師は、予定したとおり仏法を習い、
十年の後、日本へ帰り、真言を広めらたということである。
原文
慈覚大師入纐纈城行事(つづき)
一人を招きよせて、「これはいかなることぞ。かやうにたへがたげには、いかであるぞ」と問へば、木のきれをもちて、細きかひなを差しいでて、土に書をみれば、「これは纐纈城(かうけちじやう)なり。これへきたる人には、まづ物いはぬ薬を食はせて、次に肥ゆる薬を食はす、さてその後高き所につりさげて、ところどころをさし切りて、血をあやして、その血にて纐纈をそめて、うり侍なり。これしらずして、かかる目を見るなり。食物の中に胡麻のやうにて黒ばみたる物ありそれは物いはぬ薬なり、さる物参らせたらば、食まねをして捨給へ。さて人の物申さば、うめきのみうめき給へ。さて後に、いかにもして、逃べきしたくをして、逃給へ。門はかたくさして、おぼろげにて逃べきやうなし」と、いはしく教へければ、有つる居所に帰ゐ給ぬ。
さる程に、人、食物もちてきたり。教へつるやうに、気色のあるもの、中にあり。食ふやうにして、ふところに入て、のちにすてつ。人来りて物を問へば、うめきて物ものたまはず。今はしほせたりと思て、肥べき薬を、さまざまにして食はすれば、おなじく、食ふまねして食はず。人の立ちさりたるひまに、丑寅の方にぬかひて、「我山の三寶、たすけ給へ」と、手をすりて祈請し給に、大なる犬一ぴき出できて、大師御袖をくひて引。様ありとおぼえて、引かたに出給に、思かけぬ水門のあるよりひき出しつ。外に出ぬれば、犬は失にけり。今はかうとおぼして、足のむきたるかたへ走り給ふ。はるかに山をこえて人里あり。人あひて、「これは、いづかたくょりはおはする人の、かくは走給ぞ」と問ひければ、「かかる所へ行たりつるが、逃てまかるなり」とのたまふに、「哀、浅ましかりける事かな。それは纐纈城なり。かしこへ行ぬる人の帰ことなし。おぼろけの佛の御助ならでは、出べきやうなし。あはれ、貴くおはしける人かな」とて、おがみてさりぬ。
それよりいよいよ逃のきて、又都へ入て、しのびておはするに、會昌六年に武宗崩じ給ぬ。翌年大中元年、宣宗位につき給て、佛法ほろぼすことやみぬれば、思ひのごとく佛法ならひ給て、十年といふに、日本へ帰給て、真言をひろめ給ひけりとなん。
適当訳者の呟き:
結局、おそろしい城はそのままですね。。
慈覚大師:
wikipediaによると、慈覚大師が仏教を学んだのは、基本的に会昌の廃仏が発生する前で、廃仏運動による国外追放=帰国、という流れになるみたいです。もちろん帰国が決まってからも、勉強されてたはずですが。
大師が唐に到着されたのは838年7月、そして帰国は847年12月。物語のとおり10年間。ちなみに会昌の廃仏は845年に起きてます。
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