(
最初から)
さて、車へ乗せた上緒の主は、家に帰ると、
黄金を打ち掻き打ち掻きしては売り払って、いろいろなものを買い、
米や銭、絹に綾など、あちこちから手に入れたため、おびただしい富豪となった。
さらに西は四条から北、また皇嘉門より西に、
人も住まぬ、ゆらゆらとした一町ほどもある泥地があって、
買い取る際にも値段もつかないだろうと思われていた土地を、わずかの値段で買い取った。
持ち主は、役に立たぬ泥地のことで、畑にも作れず、家も建てることができず、
無用の地所だと思っていたので、わずかな値段でも買おうという人を、
相当な物好きの人だと思い、売り払った。
そして上緒の主は、この泥地を買い取った後、摂津の国へ出向いた。
舟を四五艘も引っ張って難波の辺へ行くと、酒や粥飯などを多く用意し、
また鎌をたくさん並べて、行き交う人を招き寄せると、
「この酒、粥を食うてくれ」
と言った。
「そのかわりに、この葦を刈って、少しずつこちらへ寄越すのだ」
そんなふうに言うと、人々は大喜びで集っては、
四五束、十束、二三十束と、葦を刈って、上緒の主へ渡した。
このようにして、三四日も葦を刈らせると、山のように刈りとることができるので、これを
舟十艘ばかりに積み込んで、ふたたび京へのぼる。
酒はまだたくさんあったので、道を行くあいだも、下人どもに、
「ただで行くのではなく、この綱手を引いて行け」
と言ったため、下人たちは酒を飲みつつ、綱手を引いて、
舟は実に早く、賀茂川の下流へ至ることができた。
そこから今度は車貸しに物を与えて、積んできた葦を、例の泥地へ敷き並べ、
雇った下人どもに上に土をかけさせ、そうしておいて、思うままに家を造ったのである。
南の町は、大納言源貞という人の家だが、
北の町は、この上緒の主が埋め立ててつくった家である。
その後、貞の大納言が買い取り、全部で二町の町にしたのが、このごろいう西宮である。
このようにして、上緒の主は女の家にあった金の石をとり、
それを元手に、町を造成したのであった。
原文
上緒の主得金事(つづき)
さて車にかきのせて、家に歸りて、うち缺き缺き賣りて、もの共を買(か)ふに、米、銭、絹、綾など、あまたに賣りえて、おびたゝしき徳人になりぬれば、西の四條よりは北、皇嘉門より西、人も住まぬうきのゆふゝとしたる、一町(まち)ばかりなるうきあり。そこは買とも、あたひもせじとおもひて、たヾ少に買つ。主は不用のうきなれば、畠にもつくらるまじ、家もえたつまじ、益なき所と思ふに、價すこしにても買はんといふ人を、いみじきすきものと思ひて賣りつ。
上緒の主、このうきを買ひとりて、津の国に行ぬ。舟四五艘ばかり具して、難波わたりにいぬ。酒、かゆなどおほくまうけて、鎌又多うまうけたり。行かふ人をまねきあつめて、「この酒、かゆ、参れ」といひて、「そのかはりに、此あし苅りて、すこしづゝえさせよ」といひければ、悦てあつまりて、四五束、十束、二三十束など苅てとらす。かくのごとく三四日苅らすれば、山のごとく苅りつ。舟十艘斗につみ京へのぼる。酒多くまうけたれば、のぼるまゝに、この下人共に、「たヾに行かむよりは、この綱手ひけ」といひければ、この酒をのみつゝ、綱手をひきて、いと疾ゝく加茂川尻に引つけつ。
それより車借に物をとらせつゝ、そのあしにて、このうきに敷きて、下人どもをやとひて、そのうへに土はねかけて、家を思ふまゝにつくりてけり。南の町は、大納言源貞といひける人の家、北の町は、この上緒の主の、うめてつくりける家なり。それを、この貞の大納言のかひとりて、二町にはなしたるなりけり。それいはゆる此比の西の宮なり。かくいふ女の家なりける金の石をとりて、それを本たいとして、造りたりけるなり。
適当訳者の呟き:
手に入れた金を使って、一応は世のためになることをしたということですね。
あと、牛車のレンタル業者がいたことがわかって興味深いです。
うき:
泥地のこと。wikipediaによりますと、右京(西側)は、桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった――とあります。
この宇治拾遺を見ると、住人はごく普通に畑にしてますね。
西の宮:
兵庫県の西の宮ではなく、四條大路の北、皇嘉門大路の西だとありますので、朱雀院があった辺。内裏にも近く、土壌はともかく、好立地ですね。今の市バスだと、四条中新道すぐのところみたい。
源ノ貞:
さださん。不明。ただ、歌人としても有名な源ノ順(したがふ)さんの息子に、貞さんがいます。ほかに源ノ貞という人は見つからないので、たぶんこの人です。
安和の変の次の時代くらい。藤原氏がそろそろ天下をとりつつあった頃。
[3回]
PR