今は昔、少将の、藤原季直(すえなお)という人がいた。
病を患った後、いくらか回復したので内裏に参上し、
そこで当時は掃部助・蔵人に任じられていた源公忠に逢ったので、
「病気がちなところはまだ完治していませんが、心配なこともありまして、本日参上しました。
今後のことはともかく、今日こうして参ることができましたので、
明後日ぐらいにも、また参上したいと思います、よろしくお伝え下さい」
と言って、退出した。
そうして、三日ほど過ぎて、少将から、
くやしくぞ後にあはんと契りける今日を限りと言はまし物を
――後ほどお会いしようと約束したことが悔やまれます
今日限りだと申し上げるべきであったものを
そしてその日に亡くなったという。あわれな事であった。
原文
季直少将歌の事
今は昔、季直少将といふ人有けり。病つきて後、すこしをこたりて、内に参りたりけり。公忠弁の、掃部助にて蔵人なりける此の事也。「乱り心地、まだよくもをこたり侍らねども、心元なくて参り侍つる。後は知らねども、かくまで侍れば、あさて斗に、又参侍らん。よきに申させ給へ」とてまかり出ぬ。三日ばかりありて、少将のもとより、
くやしくぞ後にあはんと契ける今日を限りといはまし物を
さて、その日失せにけり。あはれなる事のさまなり。
適当訳者の呟き
しんみり。
季直:
すえなお。大和物語101話に、より詳しく書かれていまして、そこでは、藤原季縄(すえただ)さんといいます。
大和物語版:
上の歌をもらった源公忠さんは、「どうしたのだろう」と思い、とりあえず使いをやったところ、「だいぶ弱っておいでです」との報告を受けたため、直接屋敷を訪れたところ、門は閉っていて、すでに亡くなっていた――そうです。
また、この歌は、新古今和歌集にも載ってまして、
病にしづみて、久しくこもりゐて侍りけるが、たまたまよろしうなりて、内にまゐりて、右大弁公忠、蔵人に侍りけるに逢ひて、又あさてばかり参るべきよし申して、まかり出でにけるままに、病おもくなりて限りに侍りければ、公忠朝臣に遣はしける
と、頭書きがしてあります。
ついでに、
「交野少将物語」という、今では失われてしまった、美男子物語のモデルになった人物だそうです(交野少将・かたののしょうしょうは藤原季縄さんの別名。鷹狩りの名人でもあったそうです。伝説のイケメン在原業平とあわせて、主人公・交野少将像が出来たみたいです)。
公忠弁:
源公忠。みなもとのきんただ。右大弁という役職に就いていたので、「公忠の弁」とかと呼ばれます。こうちゅうのべん。
有職読みですね。
三十六歌仙の一人で、醍醐天皇~朱雀天皇の頃の人。
ちなみにずっと後で、紀貫之からも、辞世の歌を送られているそうですが、それも、この季直さんの話が有名だったからだと思われます。
ついでに、右大弁という役職は、従四位前後で、そこそこの地位ですが、「経験者には参議に昇進する資格があり、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった(wikipedia)」そうです。
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