昔、長きにわたって修行を続ける上人がいた。
米や麦といった五穀を断って、数年経っているという。
それをお聞きになった帝が、上人を神泉苑というところへ招き入れて、
ことに尊まれている。
さてこの上人は、木の葉ばかりを食べるということで、
ある折、物笑いにしようという若い公達が集って、
この上人の心を確かめるべく、出かけて様子を見るに、なるほど実に尊く見えるので、
「穀を断って、何年ほどになりますか」
と尋ねれば、
「若きより断ってござれば、五十年あまりになりました」
これを聞いた一人の殿上人が、
「穀断ちする人の糞は、いかなるものであろう。普通の者とは違うか。
いざ行って、確かめようぞ」
と、二人三人を連れて出かけて見れば、穀糞が多く、しかも下痢を来している。
これはおかしいぞとばかりに、上人が出かけた隙に、
「上人が普段いる座の下を確かめよう」
と、畳の下を引き剥がして見れば、
土を少し掘ったところに布袋があり、そこに米が入れられていた。
公達連中はこれを見るなり、手を打ち叩いて、
「穀糞の聖、米糞の聖ぞ」
と呼ばわって、大声で笑いののしったから、上人は逃げ出すほかなかった。
その後は行方も知れず、どこかへ失踪してしまったとか。
原文
穀断聖(こくだちのひじり)、不実露顕(ふじつのろけんの)事
昔、久く行ふ上人ありけり。五穀を断て年来になりぬ。御門聞こしめして、神泉にあがめすへて、ことに貴み給。木の葉をのみ食ける。物笑する若公達集りて、此聖の心みんとて、行向ひて見るに、いとたうとげに見ゆれば、「穀断、幾年斗に成給」と問れければ、「若より断侍れば、五十余年に罷 成ぬ」といふを聞て、一人の殿上のいはく、「穀断の屎はいか様にか有らん。例の人にはかはりたるらん。いで行て見ん」といへば、二三人つれて行て見れば、 穀屎を多く痢をきたり。あやしく思て、上人の出たる隙に、居たる下を見ん」といひて、畳の下を引開けて見れば、土を少し掘て、布袋に米を入て置たり。公達 見て手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞の聖」と呼はりて、ののしり笑ければ、過去にけり。
其後は行方も知らず、ながく失にけりとなん。
適当訳者の呟き:
やんちゃな公達衆ですね。
御門:
この話の帝は、文徳天皇だそうです。
日本の六国史の五番目、日本文徳天皇実録に登場してます。
卷六齊衡元年(八五四)七月乙巳(廿二)
乙巳。備前國、貢一伊蒲塞。斷穀不食。有勅。安置神泉苑。男女雲會。觀者架肩。市里爲之空。數日之間。遍於天下。呼爲聖人。各乞私願。伊蒲塞仍有許諾。婦人 之類。莫不眩惑奔咽。後月餘日。或云。伊蒲塞夜人定後。以水飮送數升米。天曉如廁。有人窺之。米糞如積。由是聲價應時減折。兒婦人猶謂之米糞聖人。
(伊蒲塞=優婆塞)
―― 備前国から、穀断ちの坊さんが来て、神泉苑へ留めおかれたところ、男女が群がり、上人を見ようと人々が重なり合ったから、市内は空っぽ。数日で、天下に大人気の「聖人」と呼ばれるに至る。人々が個人的な願いを乞えば、すぐ認めるから、婦女子の類はもう、めろめろ。そうして数日すると、ある人が「あの坊主は、人々が寝静まった後、水で、数升の米を呑み込んで、朝方にはきっちり厠へ行くぞ」と告げるので、ある人がこれをこっそり見ると、米糞っが山盛 りになっている。これで一気に名声が落ち、女子供は、「米糞聖人」と呼ぶようになった。
藤原良房が出て、「摂関政治」の形がほぼ整った頃。国史に載ってるので、歴史学者も太鼓判を押す、実際にあった出来事だと思われます。
神泉:
しんせん。神泉苑。
大内裏の南側にあった、天皇さま専用のお庭。とはいえ、これを読む限り、一般大衆もぞろぞろやって来られた模様ですね。
[2回]
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