昔、申し上げることがあるというので、空也上人が一条大臣の屋敷へ参り、
蔵人所で待っていた時のこと。
余慶僧正がやって来たので、話などをしているうちに、僧正が、
「そのひじは、どうして折ったのですか」
と尋ねた。
空也上人が答えるには、
「わたくしの幼少時分、母が物妬みをして、片手を取って投げつけ、折ったと聞いています。
幼い時のことですので、覚えてはおりませぬが、ありがたいことに、左手でござりました。
これで、利き手の右を折られていたらどうしていただろうと思います」
それを聞いた僧正は、
「あなたはまことに尊い上人でいらっしゃる。人が、天皇の御子だと呼ぶのも分る。
まことにかたじけなく存ずる。そのひじを、祈り治してさしあげたく思うが、いかがか」
「それはこの上なき喜びです。実にありがたきこと。加持祈祷してくださりませ」
と近くへ寄れば、これを見ようと、殿中の人々が集ってきた。
そうして、余慶僧正が、頭から湯気を出すほどの祈りを込めて加持祈祷するうち、
やがて、空也上人の折れたひじが、はたと音を立ててまっすぐになった。
すなわち、右の臂と同じように伸びたのである。
空也上人は涙を落として、三度礼拝。
見る人もみな驚きいって、中には泣き出す者もあった。
その日、空也上人は若い聖を三人、供に連れていた。
一人は縄を集める者で、道に落ちている古縄を拾っては壁土へ混ぜて、
古い御堂の、破れた壁を修繕することをしていた。
また一人は瓜の皮を拾い集め、水で洗い、牢獄の衆へ与えていた。
そしてまた一人は反故、紙くずの類を拾い集めたもの梳き直す者だったが、
この三人目を、上人がお布施がわりに差し上げたため、
余慶僧正は悦んで弟子にして、義観となづけられた。
ありがたいことである。
原文
空也上人の臂観音院僧正祈り直す事
昔、空也上人、申すべき事ありて、一条大臣殿に参りて、蔵人所(どころ)に上りて居たり。余慶(よけい)僧正また参会し給ふ。物語などし給ふ程に、僧正ののたまふ。「その臂(ひぢ)は、いかにして折り給へるぞ」と。上人の日く、「我母物妬みして、幼少の時、片手を取りて投げ侍りし程に、折りて侍るとぞ聞き侍りし。幼稚の時の事なれば、覚え侍らず。かしこく左にて侍る。右手折り侍らましかば」といふ。僧正のたまふ。「そこは貴き上人にておはす。天皇の御子とこそ人は申せ。いとかたじけなし。御臂まことに祈り直し申さんはいかに」。上人いふ、「もとも悦び侍るべし。まことに貴く侍りなん。この加持し給へ」とて、近く寄れば、殿中の人々、集りてこれを見る。その時、僧正、頂より黒煙を出して、加持し給ふに、暫くありて、曲れる臂はたとなりて延びぬ。即ち右の臂のごとくに延びたり。上人涙を落して、三度礼拝す。見る人皆ののめき感じ、あるいは泣きけり。
その日、上人、供に若き聖三人具したり。一人は縄を取り集むる聖なり。道に落ちたる古き縄を拾いて、壁土に加へて、古堂の破れたる壁を塗る事をす。一人は瓜の皮を取り集めて、水に洗いて、獄衆に与へけり。一人は反古(ほうご)の落ち散りたるを拾いたる御布施に、僧正に奉りければ、悦びて弟子になして、義観と名づけ給ふ。有り難かりける事なり。
適当訳者の呟き:
時代風景が見えるあたりが好ましいです。
拾った瓜の皮を洗って、牢獄へ届けるとか、「若き聖」をお布施にするところとか。
空也上人
こうや、と振り仮名してあります(903-972)。
口から、な・む・あ・み・だ・ぶ・つの仏をはき出す木像で有名。諸国を回って、庶民のために回向したり、橋をつくったり井戸をほったりしました。民間宗教の元祖。
平安中期の市聖(いちのひじり)。生存中から皇室の出(醍醐天皇の落胤)という説があったそうです。
母親に腕を折られた、という話は、どこかで聞いた記憶があったのですが、検索すると、BL小説やらTVドラマに出てくる空也君ばかりでよく分りません。
一条大臣
検索してもよくわかりませんが、「小一条の左大臣」だと、藤原師尹(もろただ)のことです。
藤原家が他氏排斥に勤しんでいたころの人(920-969)。醍醐天皇前後。
年代的にもこの人だと思われますが、不明です。
余慶僧正
円珍の流れをくむ、天台宗寺門派の高僧(919-991)。
園城寺長吏、法性寺座主になるものの、円仁系の山門派の反発を食って京都の大雲寺というところへ引っ越し、その後も山門派と争いながらがんばります。
空也上人は、要するに民間のスーパースターですから、それを祈祷で治療する余慶さんはすごいだろう、という宣伝になるかと思います。
[5回]
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