(
最初から)
さて、長櫃に隠れた板東武者。
刀を差し、ひそかに穴を開けて見れば、
社殿には、実に何とも言えぬほどの、大きな、体長七八尺すなわち2メートル余りの大猿が、
奥の上座に座っているのであった。
顔と尻とを真っ赤に、大猿は、むしった綿花を着たようにぼうぼうと、
真っ白な毛を全身に生やしている。
左右には、200匹ばかりもの猿が居並んで、
さまざまに顔を赤くし、眉をつり上げ、口々に鳴き叫びながら、騒いでいたのである。
さらに見れば、目の前には、たいそう大きなまな板に、
長大な包丁刀が添えて、置いてあり、
傍らに、酢、酒、塩といったものを入れた瓶らしきものが、無数に並べられている。
と、しばらくの後。
上座の大猿が近寄り、長櫃の結び目を解いて、蓋を開けようとした。
と、従う猿どもがみな寄ってくるので、板東武者はひとこと、
「犬ども、食いかかれ」
と言うや、二匹の犬が躍り出て、大ざるへ食らいつき、
打ち据え、引き倒してまさに食い殺そうとするところへ、
男は髪を振り乱して飛び出し、氷のごとき刃を抜くや、
この大猿を、まな板の上に引き伏せて首に刀を押し当てたのである。
「おのれが人間の命を絶ち、その肉体を食らうということは、こういうことだ。
その報いを自ら受けよ。ここで確かに生首を切り落とし、犬の餌にしてくれるぞ」
このように言えば、大猿は顔を赤く、目を何度もしばたたかせ、
さらには真っ白な歯を出し、目からは血の涙を流すという、実にあさましい顔つきで、
手をすり悲しんだが、男は許さず、
「おのれが、実に多年に渡って人の子を食い、人の種を絶ってきたかわりに、
今ここで、そのくそ首を斬り捨てにしてくれるのだ。
それが嫌なら、おのれの分際で、わしを殺せ。構わぬぞ」
とは言いながら、さすがに首をいきなり刎ねることはしなかった。
そうしているうちに、二匹の犬に追われて、多くの猿どもはみな木の上に逃げ惑い、
大騒ぎして叫び罵るので、その騒ぎは山中に響き、大地にもこだました。
この時、一人の神主が神がかりになって、
「今日より先、決して決して、この生け贄ということはしない。
もうずっと止める。人を殺すことには、ほとほと懲りた。
命を絶つことも、今より末永く、することはない。
またわしにこのような真似をしたからあの男をどうするとか、
今日の生け贄に当った人間の縁者を悪いようにすることはない。
謝罪し、二人の子孫の末々に至るまで、わしが守りとらせる。
だから早く早く、今回のわが命を助けとらせよ。まことにつらいから。わしを助けよ」
そう言うので、宮司や神主をはじめ、多くの者たちが驚き、
社の中へ入り、大騒ぎのうちに、板東武者へ手を摺り合わせて、
「道理はたしかにその通りである。だが、御神をどうか許したまえ。
御神からもよくよく仰せがあったから」
と言うが、板東武者の方は、
「そのように許してはならぬ。
人の命を絶ち、殺す奴なれば、此奴にも、もののあわれを知らしめてやるのだ。
我が身は構わぬ。殺されようが苦しくもなし」
と言い、決して許さなかった。
こうなれば、もはや猿の首も切り離されるだけと見えるから、
宮司も手をこまねき、為す術なく、荘厳な誓いなども立てて、祈り上げると、
「今より後は、このようなことは、決して、決してするものではない」
と、神も自ら口にするから、
「ならばよし。今より後は、このようなことをするでないぞ」
と言い含めて、許したのであった。
すなわち、これより後は、すべて、人を生け贄に捧げる必要がなくなったのである。
そうして、その板東武者は家に帰り、妻とも実にむつまじく愛しあい、
似合いの夫婦となって過したという。
この男は実は、さる由緒ある人の末であったから、
身分もある、ほどの良い暮しの中で、過したのであった。
そしてそれから先、その国では、猪や鹿を生け贄にするようになったという。
原文
吾妻人、生贄をとゞむる事(つづき・終)
さるほどにこの櫃の刀の先して密に穴を開けて東人見ければ、誠にえも云はず大きなる猿の長七八尺ばかりなる、顔と尻とは赤くしてむしり綿を著たるやうに、いらなく白きが毛は生ひ上がりたるさまにて横座に居たり。次々の猿ども左右に二百ばかり並居てさまざまに顔を赤くなし、眉を上げ声々泣き叫び喧騒る。いと大きなる俎に長やかなる包丁刀を具して置きたり。めぐりには酢酒塩入りたる瓶どもなめりと見ゆる数多置きたり。
さて暫しばかりあるほどにこの横座に居たるをけ猿寄り来て長櫃の結緒をときて蓋を開けんとすれば、次々の猿ども皆寄らんとするほどにこの男、「犬ども食へ、おのれ」と云へば二つの犬跳り出でて中に大きなる猿を食ひて打ち伏せて引きはりて食ひ殺さんとするほどに、この男髪を乱りて櫃より跳り出でて氷のやうなる刀を抜きて、その猿を俎の上に引き伏せて首に刀を当てて云ふやう、「吾己が人の命を絶ち、そのしゝむらを食などする物は、かくぞある。おのづから、うけたまはれ。たしかにしやくび切りて、犬にかひてん」といへば、顏を赤くなして、目をしばたゝきて、歯をま白にくひ出して、目より血の涙をながして、まことにあさましき顏つきして、手をすりかなしめども、さらにゆるさずして、「おのれが、そこばくのおほくの年比、人の子どもをくひ、人の種を絶つかはりに、しや頭きりて捨てん事、唯今にこそあれ。おのれが身、さらば、我をころせ。更に苦しからず」といひながら、さすがに、首をばとみに切りやらず。さるほどに、この二の犬どもに追はれて、おほくの猿ども、みな木のうへに逃のぼり、まどひだわぎ、さけびのゝしるに、山もひゞきて、地もかへりぬべし。
かゝるほどに、一人の神主の神つきて、いふやう、「けふより後、更にさらにこの生贄をせじ。長くとゞめてん。人をころすこと、こりともこりぬ。命を絶つ事、今よりながくし侍らじ。又我をかくしつとて、此男とかくし、又けふの生贄にあたりつるの人ゆかりを、れうじはづらはすべからず。あやまりて、その人の子孫のすゑずゑにいたるまで、我、まもりとならん。たゞとくとく、このたびの我命を乞ひうけよ。いとかなし。われをたすけよ」とのたまへば、宮司、神主よりはじめて、おほくの人ども、おどろくをなして、みな社のうちに入たちて、さわぐあわてて、手をすりて、「ことわりおのづからさぞ侍る。たゞ御神にゆるし給へ。御神もよくぞ仰らるゝ」といへども、このあづま人、「さなゆるされそ。人のいのちをたちころす物なれば、きやつに、もののわびしさ知らさんと思ふ也。わが身こそあなれ。たゞ殺されん、くるしからず」といひて、更にゆるさず。かゝるほどに、この猿の首は、きりはなたれぬと見ゆれば、宮司(つかさ)も手もどひして、まことにすべき方なければ、いみじき誓言(ちかごと)どもをたてて、祈申て、「今よりのちは、かゝること、更に更にすべからず」など、神もいへば、「さらばよしよし。いまより後は、かゝることなせそ」と、いひふくめてゆるしつ。さてそれより後は、すべて、人を生贄にせずなりにけり。
さてその男、家にかへりて、いみじう男女あひ思ひて、年ごろの妻夫(めおと)になりて、すぐしけり。男はもとより故ありける人の末んありければ、口惜しからぬさまにて侍りけり。其後は、その國に、猪、鹿をなん生贄にし侍けるとぞ。
適当役者の呟き:
長かった!
でも、生贄を待ち構える猿どもや、人間側の儀式など、相当興奮します。
横座:
畳や敷物を横に敷いて設けた正面の席。上座。
しゃ頭、しゃ首:
時代小説などには、今でもギリギリ出てくるかと思います。何かを罵倒するときに、頭にくっつける気合の言葉ですね。しゃっ首。適当訳では、「くそ首」とか書いてます。
[10回]
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