これも今は昔、堀川院の御代。
奈良の僧侶たちを招いて、大般若経の御読経が行われた際、
明暹も、その中に参加していた。
途中で帝が御笛をお吹きになり、いろいろと調子を変えてお吹きになったが、
明暹は、笛の調子が変るたびに間違うことなく、声色を上げたため、
帝は不思議に思われ、明暹を召した。
お庭へ明暹がひざまづくと、仰せによって縁側へのぼることが許される。
やがて帝から、
「笛は吹くか」
とのお尋ねがあるので、
「型どおりのことは致します」
と申し上げると、
「そうであろう」
と仰せがあって、御笛が下された。
吹くようにとの仰せに、明暹は、万歳楽を、えも言われぬすばらしさで吹いたため、
帝も感心されて、そのままその笛を賜ることとなった。
この笛はその後も伝わって、今は石清水八幡宮の別当、幸清のもとにあるという。
原文
堀河院明暹に笛吹かさせ給ふ事
これも今は昔、堀河院の御時、奈良の僧どもを召して、大般若の御読経行はれけるに、明暹この中に参る。その時に、主上御笛を遊ばしけるが、やうやうに調子を変へて、吹かせ給ひけるに、明暹調子ごとに、声違へず上げければ、主上怪しみ給ひて、この僧を召しければ、明暹ひざまづきて庭に候。仰によりて、上りて簀子(すのこ)に候に、「笛や吹く」と問はせおはしませければ、「かたのごとく仕り候」と申しければ、「さればこそ」とて、御笛賜びて吹かせられけるに、万歳楽をえもいはず吹きたりければ、御感ありて、やがてその笛を賜びてけり。件の笛伝りて、今八幡別当幸清がもとにありとか。
適当訳者のつぶやき
短めですし、敬語の使い方とかで、試験に出そうな話ですね。
明暹
めいせん。
前回のお話で出てきた雅楽の名人。
声違えず上げ:
雅楽では、歌も笛も一緒に奏でるのです。
簀子:
すのこ。板や竹を、少しずつ間をあけて並べ、横板に打ちつけたもの。
なので、今でも使う、お風呂場や押し入れの「すのこ」と同じですが、この場合は、庭と室内の間の、縁側。濡れ縁。
八幡別当幸清
石清水八幡宮の別当、紀幸清だと思われます。「1229年7月、別当に任じられた」と書いてあるサイトがありました。
というわけで、この話は、鎌倉時代中期に成立した模様。
1219年、三代将軍実朝暗殺。
1221年、承久の乱。
1232年、御成敗式目。
1235年、小倉百人一首選定。
このへんの時代ですね。
[2回]
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