これも今は昔。
下野武正という舎人は、法性寺殿・藤原忠通さまの下で勤めていた。
ある時、大風、大雨が降って、京都の家々が軒並み損壊した際、
法性寺殿は、近衛殿のお屋敷にいらしたが、
南の正殿の方から、騒ぎ声が聞こえるので、
何者かと思い、ご覧になったところ、
武正が、赤香の裃に蓑笠をつけて、縄を帯にした蓑を着て、
さらに檜笠は上から縄を顎のところで結んで、二叉になった杖をついて、
屋敷の周りを走り回って、警護していたのであった。
何といってもその姿は、すさまじいもので、ほかに似たものもない有様。
法性寺殿は、正殿まで出て、御簾の内側からご覧になっていたが、
とにかく驚かれて、後に武正へ馬をくだされたという。
原文
下野武正、大風雨日、参法性寺殿事
これも今は昔、下野武正といふ舎人は、法性寺殿に候けり。あるをり、大風、大雨降りて、京中の家、みな壊れ破れけるに、殿下、近衛殿におはしましけるに、南面のかたに、ののしる物の声しけり。誰ならんとおぼしめして、見せ給に、武正、赤香(あかかう)のかみしもに蓑笠を着て、蓑の上に縄を帯にして、檜笠の上を、又おとがひに、縄にてからげつけて、鹿杖(かせづゑ)をつきて、走回りておこなふ也けり。大かた、その姿、おびたたしく似るべき物なし。殿、南面(おもて)へ出でて御簾より御覧ずるに、あさましくおぼしめして、御馬をなん賜びけり。
適当訳者の呟き
100話! ご褒美のような短さで、適当訳者的には、たいへんありがたいです。
下野武正:
しもつけのたけまさ。
下毛野武正とも言うみたいです。上野、下野は律令制の頃は、あわせて「毛野国」と言っていた模様。
この武正。今昔物語に、主人の法性寺殿こと藤原忠通にうまいこと言って、まんまと土地をせしめた逸話が載ってます(下野武正山崎を領地の事並びに競馬に負けて酒肴を供する事)。
……武正が昔、山崎の土地で無様に落馬したことを殿様が覚えていて、主従でそこを通りかかった際、「ああ、ここが例の、武正の土地だな」と仰ったので、「左様でございます。ここが、わたくしの土地です」とか言って、武正が土地をそのまま自分のものにしてしまう話。本来の領主も、法性寺殿の威光には逆らえず、泣き寝入り。。。悪い奴だなあ。
とりあえず、この宇治拾遺の逸話のように、常々ゴマをすり続けた成果があった、ということですね。
赤香の裃:
こんな色の裃。赤い、目立つ色ですね。
法性寺殿:
ほっしょうじどの。藤原忠通。
院政期の摂政、関白、太政大臣。弟の悪左府・藤原頼長さんと派手な兄弟喧嘩、保元の乱を巻き起こします。
近衛殿:
忠通さんの孫、近衛基通。第二次大戦時の困った首相、近衛文麿さんに続く、「近衛家」の二代目です。ちなみに近衛家の初代、つまり今回の近衛殿の父親・基実さんは、24歳で若死してます。
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