今は昔、鷹匠の仕事をして生計を立てている者がいた。
あるとき、飼っていた鷹が飛んでいってしまったので、
これを捕まえようと、飛び去るあとをついて行くうちに、
はるかな山奥の谷間へ来て、
対岸の高木で、鷹が巣作りをしているのを見つけた。
鷹匠は、これはすばらしいものを見つけたぞと嬉しく思い、
その時はひとまず、家に帰った。
そうして、卵が孵化し、鷹の子もそろそろ育ち始めた頃合であろう、
その鷹の子を取って来ようぞと、改めて行ってみると、
そこは何とも言われぬほどの、深山の谷で、底さえ見えなかった。
その上、鷹が巣をつくっていたのは、
それはそれは高く、根などは谷間をさし覆うように伸びた、榎の木の枝先であった。
そんな巣の周りを、鷹がゆうゆうと歩いている。
それを見るにつけ、えも言われぬほどの美しい鷹だ。
鷹の子も、定めし立派であろうと思い、
鷹匠は、夢中になって榎の木をのぼりはじめた。
だが、ようやく巣のもとへ手が届く――というところで、
踏んでいた枝が折れるや、谷へ落下してしまったのである。
辛うじて岩壁から差し出されたような木の上へ落ちて、
枝へしがみついたが、生きた心地もしない。
下を見れば谷底も見えぬほどの深さで、
見上げれば、崖の岸は遙かな高さにあって、よじ登ることさえできなかった。
一方、鷹匠の従者たちは、主人が谷間へ落下したものだから、
間違い無く死んだぞ――と思ったが、
それでもどうなったかと、崖の端へ寄り、震えるつま先でおそるおそる見下ろせば、
底知れない谷に、木の葉がたくさん茂って、下の様子はよく分らなかった。
何より、目眩を覚えるほどに恐ろしくてならないから、長く見ていられない。
どうしようもないが、その場に居続けても仕方がない。
ともかく、みな屋敷へ帰り、しかじかと報告すると、
鷹匠の妻子は泣き惑うが、もはや、どうしようもないことであった。
二度と対面することは叶わないだろうが、せめてお姿を一目見るだけでも、
と訴える妻子に、
「あの谷へは、どのように参れば良いか、道もわかりません。
またあそこへ行かれたとしても、底もわからぬような谷のこと。
わたくしどもも、上から覗き込み、あれこれと確かめましたが、
ついに、ご主人様は見つけられませんでした」
と、従者は答えて、
「まことに、そのようでありました」
とほかの人も言うので、妻子も、とうとう行くことをやめてしまった。
その一方で。
谷間の鷹匠は、わずかに、お盆くらいに出っぱった岩へ尻を置き、
木の枝へつかまったまま、身じろぐことさえできない状態であった。
少しでも動いたら谷底へ落ち込んでしまうであろう。
いかようにも、いかようにも仕様がなかった。
(つづき)
原文
観音経、化蛇輔人給事
今は昔、鷹を役にて過る物有りけり。鷹の放れたるをとらんとて、飛にしたがいてい行ける程に、はるかなる山の奥の谷の片岸(かたきし)に、高き木のあるに、鷹の巣くひたるを見付て、いみじき事見置きたると、うれしく思て、帰てのち、いまはよき程に成ぬらんとおぼゆる程に、子をおろさんとて、又、行て見るに、えもいはぬ深山の深き谷の、そこゐも知らぬうへに、いみじく高き榎の木の、枝は谷にさしおほひたるが上に、巣を食て子をうみたり。鷹、巣のめぐりにしありく。見るに、えもいはずめでたき鷹にてあれば、子もよかるらんと思て、よろづも知らずのぼるに、やうやう、いま巣のもとにのぼらんとする程に、踏まへたる枝折れて、谷に落ち入ぬ。谷の片岸にさし出でたる木の枝に落ちかゝりて、その木の枝をとらへてありければ、生たる心地もせず。すべき方なし。見おろせば、そこゐも知らず、深き谷也。見あぐれば、はるかに高き岸なり。かきのぼるべき方もなし。
従者どもは、谷に落ち入ぬれば、うたがひなく死ぬらんと思ふさるにても、いかゞあると見んと思て、岸の端へ寄りて、わりなく爪立てて、おそろしけれど、わづかに見おろせば、そこゐも知らぬ谷の底に、木の葉しげくへだてたる下なれば、さらに見ゆべきやうもなし。目くるめき、かなしければ、しばしもえ見ず。すべき方なければ、さりとてあるべきならねば、みな家に帰りて、かうかうといへば、妻子ども亡きまどへどもかひなし。あはぬまでも見にゆかまほしけれど、「さらに道もおぼえづず。又、おはしたりとも、そこゐも知らぬ谷の底にて、さばかりのぞき、よろづに見しかども、見え給はざりき」といへば、「まことにさぞあるらん」と人々もいへば、行かずなりぬ。
さて、谷には、すべき方なくて、石のそばの、折敷のひろさにてさし出でたるかたそばに尻をかけて、木の枝をとらへて、すこしも身じろぐべきかたなし。いさゝかもはたらかば、谷に落入ぬべし。いかにもいかにもせん方なし。
適当訳者の呟き:
これは非常に明晰な古文でした。学のあるお坊さんが書いたのかなあ。。。
つづきます!
折敷
おしき。「四角いお盆」を想像すれば良いです。
[6回]
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