これも今は昔。
一乗寺僧正、御室戸僧正という三井寺の門流に、
二人のやんごとない方がいらっしゃった。
御室戸の僧正は、大宰権帥・藤原隆家の第四子で、
一乗寺の僧正は、その子供の大納言・藤原経輔の第五子であった。
御室戸の僧正を隆明といい、一乗寺の僧正を、増誉といった。
二人ともそれぞれ尊く、生き仏のような存在であった。
さて、御室戸僧正・隆明は肥満体であったから、
修行のため歩き回ることさえできなかった。
このため僧正はひたすらご本尊の前を離れることをせず、
昼夜を問わず、修行をお続けになる鈴の音を絶やすことはなかった。
この評判に、多くの人が訪れるようになったが、門はつねに閉ざされていて、
門を叩く者があるときは、まれに誰か出る者があって、
「誰ぞ」
と問う。
「しかじかの人が参りました」
とか、
「上皇さまのお使いでございます」
と言えば、
「お伝えします」
と答えて奥へ入るが、いつまで続くのか分らぬほど、
鈴の音がしきりに聞こえ続ける。
やがて、ようやく門の閂を外され、
門扉の片側が、人が一人通れる分だけ開かれる。
中を見れば、庭には草がぼうぼうに生い繁り、
道を踏み分けたあとさえ無い様子。
草の露を掻き分けるようにして行くと、広庇の一間があり、
妻戸に明障子が立ててあるが、
煤けて埃まるけになっていて、いつの時代に張られたものか分らないほど。
やがて墨染衣を着た僧が、足音も立てずに出てくると、
「しばらくそこでお待ちください。僧正におかれては只今、修行の最中です」
と言うので、待っていると、やがて、内から、
「こちらへ」
と言われるので、別間へ移れば、
また煤けた障子があるので、引き開けたところ、
立ちこめた香の煙が漏れ出てくる。
さて、そこに座る僧正のお姿はと見れば、
上も下もくたくたに萎えきった衣で、
袈裟も所々破れているありさまである。
ものも言わず、ただ座っているので、
訪れた人も、どうしたのだろうと、黙って座っているが、
やはり僧正は、腕を組み、俯きがちに座ったまま動かない。
しばらくして、僧正が、
「行のこと、良いように修められた様子。この上は、とくお帰りください」
と言うので、使いの者は言うべきことも言えず、
また門から出て行くのだった。
要するに僧正は、座ったまま修行を積まれる人なのである。
【つづき】
原文
御室戸僧正事・一乗寺事
是も今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正とて、三井の門流に、やんごとなき人おはしけり。御室戸の僧正は、隆家師(そち)の第四の子なり。一乗寺僧正は、經輔大納言の弟五の子なり。御室戸をば隆明といひ。一乗寺をば增誉といふ。この二人、おのおの貴くて、生佛なり。
御室戸はふとりて、修行するに及ばず、ひとへに本尊の御前をはなれずして、夜昼おこなふ鈴の音、たゆるときなかりけり。おのづから人の行むかひたれば、門をばつねにさしたる。門をたゝくとき、たまたまひとの出きて、「たれぞ」と問ふ。「しかじかの人の参らせ給たり」もしは、「院の御使にさぶらふ」などいへば「申さぶらはん」とて、奥へ入て、無期にある程、鈴の音しきり也。さて、とばかりありて、門の關木(くわんのき)をはづして、扉かたつかたを、人ひとりいる程あけたり。見いるれば、庭には草しげくして、道ふみあけたるあともなじ。露を分けてのぼりたれば、廣びさし一間あり。妻戸に明障子たてたり。すすけとほりたること、いつの世に張りたりともみえず。しばしばかりあて、墨染きたる僧、あし音もせで出きて、「しばしそれにおはしませ。おこなひの程に候」といへば、待ゐたるほおどに、とばかりありて、内より、「それへいらせたまへ」とあれば、すゝけたる障子を引あけたるに、香の煙くゆりいでたり。なへとほりたる衣に、袈裟なども所々破たり。物もいはでゐられたれば、この人も、いかにと思てむかひゐたるほおどに、こまむきて、すこしうつぶしたるやうにてゐられたり。しばしある程に、「おこなひの程よく成候ぬ。さらば、とく歸らせ給へ」とあれば、云べき事もいはで出ぬれば、又門やがてさしつ。これは、ひとへに居行ひの人也。
適当訳者の呟き:
つづきます! でも後半は、前半とまったく関係無い感じになります。。。
藤原隆家、経輔:
あんまり本編とは関係ない二人ですが、とりあえず、隆家は、藤原道長のいとこに当ります。
というわけで、ここに出てくる僧正たちは、世代的には、藤原道長の孫世代かなと思うので、ちょうど、宇治大納言物語が成立した頃の人たちってことになります。
[1回]
PR