今は昔、一条摂政は東三条殿の兄にあたり、
ご容姿はもちろん、お心遣いもやさしくて、
様々な風流ごとに通じてお楽しみになることも多かったが、
あるとき、ちょっとしたいたずら心を覚えられた。
御名を隠して「大蔵の丞・豊蔭」と名乗り、
さるとても高貴な姫君へ、お手紙を遣わせたのである。
思いは通じて、姫君の方も会ってみたいと焦がれるようになったため、
周囲もそう心得て、一条摂政へ知らせたところ、
やがて、摂政は姫君のもとを訪れ、一夜をともにした。
このことは、乳母や姫君の母親には伝えておいたが、
父親には決して知られないようにしていたところ、
父親、これを聞きつけてしまったらしい。
たいそう腹を立てて、母親を爪弾きするほどに責め立てるので、
「そんな事実はございません」
と、母親は抗弁しつつ、摂政様の方へ、
「未だそんなことはしていない旨、手紙に書いて送ってください」
と、伝えたところ、摂政から、
人知れず身はいそげども 年経てなど越えがたき逢坂の関
――人知れず気は逸るのに、幾年を経ても、逢坂の関は越えて逢うことができない
と手紙が届いた。
これを父親に見せたところ、
「何だ、嘘だったのか」
と思い、父の方は、こんなふうに歌を返したのだった。
あづま路に行きかふ人にあらぬ身はいつか越えん逢坂の関
――本当に東の果てにいるのではないから、いつかは逢坂の関を越えてしまうのだろう
これをご覧になった摂政は微笑まれたと、歌集に載っている。
なかなかおもしろいことである。
原文
一条摂政歌事
今は昔、一条摂政とは東三条殿の兄にあはします。御かたちより初め、心用ひなどめでてく、才をも多く御覧じ興ぜざさせ給ひけるが、少し軽々に覚えさせ給ひければ、御名を隠せ給ひて、大蔵の丞豊蔭と名のりて、上ならぬ女のがりは御文も遣はしける。懸想せさせ給ひ、逢はせ給ひもしけるに、皆人さ心得て知り参らせたり。
やんごとなくよき人の姫君のもとへおはしまし初めにけり。乳母、母などを語らひて、父には知らせさせ給はぬ程に、聞きつけて、いみじく腹立ちて、母をせため、爪弾きをして、いたくのたまひければ、「さる事なし」とあらがひて、「まだしき由の文書きて給べ」と母君のわび申したりければ、
人知れず身はいそげども年経てなど越えがたき逢坂の関
とて遣はしたりければ、父に見すれば、「さては空事(そらごと)なりけり」と思ひて、返し、父のしける。
あづま路に行きかふ人にあらぬ身はいつか越えん逢坂の関
と詠みけるを見て、ほほゑまれけんかしと、御集にあり。をかしく。
適当訳者の呟き
和歌を通じた、平安貴族のやりとり――が、よく分る逸話だと思いました。
個人的には、父親の返しが好きです。
一条摂政:
藤原伊尹。ふじわらのこれただ。
村上天皇期の実力者右大臣藤原師輔の長男。
後に摂政にまでなりますが、直後に急死してしまった模様です。
東三条殿:
たぶん藤原兼家、道長のお父さんです。
この頃の藤原さんは、兄弟間で徹底的に権力争いをしていたと書いてあるのですが、その一方で、こういう優雅な恋愛を楽しんでいたのですね。
[7回]
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