今は昔、越前の国のかふらきの渡し、というところで、
海を渡ろうと、たくさんの人が集まっている中に、山伏がいた。
名を、けいたう坊という。
熊野、御嶽はもとより、白山、伯耆の大山、出雲の鰐淵など、
修行しなかった場所はない、というほどの山伏だった。
この山伏、かふらきの渡しから、舟で若狭湾を越えようとしていたが、
何せ渡しには雲霞のように人が集まって、
それぞれが船頭に何か与えて舟に乗っているから、舟に乗れない。
「わしを乗せよ」
というが、船頭は聞こえないふりをして、漕ぎ出してしまった。
「これ、どういうことだ。無体な真似をするな」
と山伏は呼びかけたが、船頭は耳が聞こえないふりをして行ってしまう。
するとこの山伏は、ぐっと歯を食いしばり、
念珠をくしゃくしゃに揉み始めたのである。
船頭は振り返り、馬鹿な真似をする奴だと思いつつ、
二、三町、つまり二、三百メートルも進んでしまう。
そうなると山伏はさらに怒って、もう、砂にふくらはぎまで沈めるほど力を込め、
目も赤くなるほどに向を睨みつけるや、
手にした数珠を砕けよとばかりに揉みちぎって、
「戻らぬか!」
と絶叫した。
だが舟はなおも行き去ろうとするので、
山伏は袈裟と念珠をいっしょくたに摑むや、水際まで歩み寄ると、
「護法童子、あれを引き戻せ! 引き戻さねば、わしは仏法を捨てるぞ!」
大絶叫とともに、袈裟を水へ投げ込まんばかりにした。
これにはさすがに、野次馬たちもびっくりして、顔色を変えている。
と、そのうちに、風も無いのに舟がこちらへ戻ってきた。
「よし、よくぞ致した。さっさと引き戻すのだ」
と、見る者を驚かせながら、やがて舟は一町ほどの距離へ戻ってくる。
ここで山伏。
「では今はそのままひっくり返すべし」
と命じたから、見ていた者たちは口々に、
「それは乱暴な。ひどい罪作りなことでございますよ。おやめなさい」
と言うが、山伏は、むっと顔色を変えて、
「構わぬから、さっさと引っくり返せ!」
そう叫ぶや、この渡し舟に乗る20余りの人たちが、ずぶりと水へ落っこちたのだった。
これを見て、山伏は汗を拭いながら、
「ああ、愚か者どもめ。思い知ったか」
そんなことを言って、帰って行ったという。
世も末だが、仏法は生きていたということであろう。
原文
山ぶし舟祈返事
これもいまはむかし、越前国かふらきのわたりといふ所にわたりせんとて、者どもあつまりたるに、山ぶしあり。けいたう坊といふ僧なりけり。熊野(くま の)、御嶽(みたけ)はいふに及ばず。白山(しらやま)、伯耆の大山、出雲の鰐淵(わにぶち)、大かた修行し残したる所なかりけり。
それに、このかふらきの渡にゆきて、わたらんとするに、わたりせむとする者、雲霞(うんか)のごとし。おのおの物をとりてわたす。このけいたう坊「わた せ」といふに、わたし守、聞(き)もいれで、こぎいづ。その時に、此山ぶし「いかに、かくは無下にはあるぞ」といへども、大かた耳(みみ)にも聞(き)き いれずして、こぎ出(いだ)す。其(その)時にけいたう坊、歯をくひあはせて、念珠(ねんず)をもみちぎる。このわたし守、みかへるて、をこの事と思(お もひ)たるけしきにて、二三町ばかりゆくを、けいたう坊みやりて、足(あし)を砂子(すなご)に脛(はぎ)のなからばかりふも入(いれ)て、目もあかくに らみなして、數珠(ずず)をくだけぬと、もみちぎりて、「召(め)し返せ」とさけぶ。猶(なお)行過(ゆきすぐ)る時に、けいたう坊、袈裟を念珠とを、と りあはせて、汀(みぎは)ちかくあゆみよりて、「護法、召(め)しかへせ。召(めし)かへさずは、ながく三()に別(わかれ)奉らん」とさけびて、この袈 裟(けさ)を海になげいれんとす。それをみて、このつどひゐたる者ども、色(いろ)うしなひてたてり。
かくいふほどに、風もふかぬに、このゆく舟のこなたへより来(く)。それをみて、けいたう坊「よるめくるは。はやう率(い)ておはせ」と、すはなちをし て、みる者色違(たが)へたり。かくいふほどに、一町(ちやう)がうちにより来(き)たり。そのときけいたう坊「さて今はうちかへせ」とさけぶ。そのとき に、つどひてみる者ども、一聲(こゑ)に、「むざうの申(まうし)やうかな。ゆゆしき罪(つみ)にも候。さておはしませ」といふとき、けいたう坊、います こしけしきかはりて、「はや、打(うち)かへし給へ」とさけぶときに、此(この)わたし舟に廿餘人のわたる者(もの)、づぶりとなげ返しぬ。その時、けい たう坊、あせを押し(を)しのごひて、「あな、いたのやつばらや。まだしらぬか」といひて立(たち)帰(かへり)にけり。
世の末(すゑ)なれども、三寳おはしましけりとなん。
適当訳者の呟き:
わるい山伏だなあ。。。
越前・かふらきの渡り:
検索したら、南条郡河野村甲楽城じゃないかと出ました。「甲楽」でかぶらき。
若狭湾の北側なので、ここから舟で若狭湾を超えたのでしょう。
けいたう坊
恵登坊とか、桂頭坊とか、蛍灯坊とか、何かしら漢字があるのでしょうが、不明です。
護法:
護法童子。ごほうどうじ。
仏法および仏教徒を守護する神を護法善神、護法神などとも。密教の高僧や修験者に随って守護し、また聖俗の両界にわたって使役される神霊や自然の精霊をも指す――らしいです。
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