昔、兵藤大夫恒正(つねまさ)という者がいた。
かれは筑前国の山鹿庄というところに住んでいたが、
あるとき、彼の屋敷へ旅の一行がやって来て、しばらく滞在することとなった。
その折、恒正の家来の、まさゆきという者が、仏を造立し、供養しようというので、
大勢が恒正の屋敷へやって来て、ものを食い、酒を飲んで騒ぎ始めた。
旅人が、
「何かあるのか」
と家の者に尋ねたところ、
「まさゆきという者が仏供養をするというので、主人へ献上したものを、
同輩連中が食べて騒いでいるのですよ。
今日は百膳ほどもご馳走が出ています。
明日になれば、あなた様にも、恒正が運んでくるはずです」
と言う。
旅人は、
「仏供養をする場合、みなこのようにするのか」
「ええ。田舎の人間は、仏供養する際、四五日かけてこんなことをするのです。
昨日と一昨日は身内で、里の近所の者や親類を招いておりました」
これには旅人は、
「おかしなことをするものだ」
と呟いて、
「ともかく明日を待とう」
と、その日は引き下がった。
さて夜が明けて、いつかいつかと待っているうちに、恒正がやって来た。
さもあらんと思ううちに、
「どこだ。ああ、これを差し上げよ」
と言う声が聞こえる。
それでは、と思っていると、それほど悪くもない饗応の膳が一つ二つ運ばれてきて、
さらには下男や女たちの分まで、数多く持って来る。
また、講師のためだといって、古めかしい物も運ばれて来た。
仏供養の講師を、旅人の連れていた僧侶に頼もうというのである。
そうして物を食い、酒を飲んでいるうちに、講師役を請われた僧侶が言うには、
「明日の講師の役、お引き受けしますが、どの仏様を供養するのか、聞いておりませぬ。
いかなる仏を供養されるのでしょう。
仏様は種類多くいらっしゃるので、それを承った上で、説教も致しましょうが」
と言うのを恒正が聞いて、
「まさゆきはおるか」
と呼ぶと、今回この仏供養をする主催者であろう、
背丈の高い、猫背の、赤髭の五十歳ばかりになる男が、
腰に太刀をさし、股引姿で出てきた。
(つづく)
原文
恒正が郎等佛供養の事
昔、ひやうどうたいふつねまさといふ者ありき。それは、筑前国やまがの庄といひし所にすみし。又そこにあからさまにゐたる人ありけり。つねまさが郎等に、まさゆきとてありしをのこの、佛造り奉りて、供養し奉らんとすと聞き渡て、つねまさがゐたるかたに、物くひ、酒のみのゝしるを、「こはなにごとするぞ」といはすれば、「まさ行といふものの、佛供養し奉らんとて、主のもとにかうつかうまつたるを、かたへの郎等どもの、たべのゝしる也。けふ、饗百膳ばかりぞつかうまつる。あす、そこの御前の御料には、つねまさ、やがて具して參るべく候ふなる」といへば、「佛供養し奉る人は、かならず、かくやはする」「田舎のものは、佛供養し奉らんとて、かねて四五日より、かゝることどもをし奉るなり。きのふ一昨日は、おにがわたくしに、里隣、わたくしのものども、よびあつめて候ひつる」といへば、「をかしかつる事かな」といひて、「あすを待べきなめり」といひてやみぬ。
あけぬれば、いつしかと待ちゐたる程に、つねまさ出できにたり。さなめりと思ふ程に、「いづら。これ參らせよ」といふ。さればよと思ふに、さることあしくもあらぬ饗一二膳ばかり据ゑつ。雜色、女どもの料にいたるまで、かずおほく持てきたり。講師の御心みとて、こだいなる物据ゑたり。講師には、此旅なる人の具したる僧をせんとしたるなりけり。
かくて、物くひ、酒のみなどする程に、この講師に請ぜられんずる僧のいふやうは、「あすの講師とはうけたまはれども、その佛を供養せんずるぞとこそ、得うけたまはらぬ。なに佛を供養し奉るにかあらん。佛はあまたおはしますなり。うけたまはりて、説經をもせばや」といへば、つねまさ聞て、さることなりとて、「まさゆきや候」といへば、此佛供養し奉らんとするをのこなるべし、たけたかく、おせぐみたる者、赤鬚にて、年五十斗(ばかり)なる太刀はき、股貫はきて、いできたり。
適当訳者の呟き
つづきますー。
旅人が単独なのか一団なのか、あたくしの能力では読み解きにくいのですが、何となく、貴族一行だろうなあと思ったので、そんな感じにして訳してあります。
やまがの庄:
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿という地名が出ました。北九州小倉から日本海沿いを西に25キロくらい行ったところ。中世以前は、小倉~太宰府間は、海に近いところが街道だったっぽいです。
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