これも今は昔。
大二条殿こと藤原教通は、小式部内侍のことを目にかけていたが、
いつか訪れることが稀になっていた。
そんな折、教通は病にかかり、長く患ってしまったが、
やがて回復して、久しぶりに上東門院のもとを訪れた。
そして帰りしな、控えの間にいた小式部に対して、
「わしが死にそうであったというのに、見舞いにも来なかったな」
と言って、行き過ぎようとしたところ、
小式部は、教通の直衣の裾を、きゅと引き留めて、
死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか 生きて問ふべき身にしあらねば
――死んでしまいたいほどに嘆きました。人目があり、生きて訪れることもできない身であれば
感に堪えなかったのであろう、教通はそのまま小式部を抱き寄せると、
局へ行き、ともに一夜を明かしたのだった。
原文
大二条殿に小式部内侍歌読みかけ奉る事
これも今は昔、大二条殿、小式部内侍おぼしけるが、絶え間がちになりけるころ、例ならぬことおはしまして、久しうなりて、よろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひたるに、小式部、台盤所(だいばんどころ)にゐたりけるに、出でさせ給ふとて、「死なんとせしは、など問はざりしぞ」と仰せられて過ぎ給ひける。御直衣(なほし)の裾を引きとどめつつ、申しけり。
死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば
堪へずおぼしけるにや、かき抱きて局へおはしまして、寝させ給ひにけり。
適当役者の呟き
小式部さんかわいい……という目で訳してみました。
大二条殿:
藤原教通。道長の五男で、兄の頼通から藤原氏長者を譲られて関白になります。
教科書年表的には、教通さんのときの後三条天皇から摂関政治が弱まって「院政」に切り替わる感じです。
後三条天皇の次が白河天皇。
ちょうど、宇治拾遺物語成立の頃ですね。
小式部内侍:
こしきぶないし。和泉式部の娘なので、小さいです。歌も百人一首に登場します。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
多くの男性との恋愛記録があり、また20代で若死にしてしまっているので、
小式部さんこそ日本史上で一番の美人なんじゃないかと思ったりします。
(小野小町の晩年はあわれだった、という説がありますし)
上東門院:
藤原の彰子。
道長さんの長女なので、大二条殿・教通の姉さまに当ります。
紫式部、和泉式部などを抱えて、平安女流文学の花盛りを演出しました。
台盤所:
だいばんどころ。宮中では清涼殿の一室で女房の詰め所。貴族の家では、台所のこと。
[3回]
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