今は昔、三河入道寂昭という人が、唐の国へ渡った後、
国王が高僧を召し集めて堂を飾り、僧膳を設けて、経の講義をさせた。
国王が、
「今日の食事は、手を使う下働きは使わないこととする。
それぞれが自分の鉢を飛ばして、食事を受けるように」
と言った。
これは、日本の僧侶を試そうとしてのことである。
そうして多くの僧侶が、自らの席から次々に鉢を飛ばして、食事を受けて行く。
三河入道は下座に着き、やがて自分の番が来るので、
鉢を手に持って立ち上がろうとするのを、
「どうした。鉢を飛ばして受ければよいぞ」
と、人々が留めようとする。
寂昭が言うには、
「鉢を飛ばすということは、別の術を用いてすることでしょう。
然るにこの寂昭は未だその法を習っておりませぬ。
日本国においても、その法を行う者もありましたが、末世になれば行う者もなく、
どうしてわたしが鉢を飛ばせましょうか」
と言い張っていると、
「日本の聖、鉢遅し、鉢遅し」
と、まわりが罵る。
そこで寂昭、日本の方へ向い、祈念して言うには、
「我国の三宝、神々、我を助けたまえ。恥を見せたまうな」
と念じ入っていると、
寂昭の鉢が、コマのようにくるくる周り、
唐の僧侶より早く飛んで、食物を受けて戻ってきたのである。
その時になって、国王もみな、
「高貴なお人だ」
と、拝んだと伝わる。
原文
寂昭上人鉢を飛す事
今は昔、三河入道寂昭といふ人、唐(もろこし)に渡りて後、唐の王、やんごとなき聖どもを召し集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、経を講じ給ひけるに、王のたまはく、「今日の斎莚(さいえん)は、手長(てなが)の役あるべからず。おのおの我が鉢を飛せやりて、物は受くべし」とのたまふ。その心は、日本僧を試みんがためなり。
さて諸僧、一座より次第に鉢を飛せて、物を受く。三河入道末座に着きたり。その番に当て、鉢を持ちて立たんとす。「いかで。鉢をやりてこそ受けめ」とて、人々制しとどめけり。寂昭申しけるは、「鉢を飛する事は、別の法を行ひてするわざなり。然るに寂昭、いまだこの法を伝へ行はず。日本国に於ても、この法行ふ人ありけれど、末世には行ふ人なし。いかでか飛さん」といひて居たるに、「日本の聖、鉢遅し鉢遅し」と責めければ、日本の方に向ひて、祈念して曰く、「我が国の三宝、神祇助け給へ。恥見せ給ふな」と念じ入りて居たる程に、鉢独楽(こまつぶり)のやうにくるめきて、唐の僧の鉢よりも速く飛びて、物を受けて帰りぬ。その時、王より始めて、「やんごとなき人なり」とて、拝みけるとぞ申し伝へる。
適当訳者の呟き:
寂昭といい、鉢を飛ばすこといい、何だかなじみ深いです。
三河入道寂昭:
じゃくしょう。大江定基。
長保5年(1003年)宋に渡海、やがて円通大師の号を賜り、日本に帰国する事がないまま杭州で没。彼が渡った時、すでに唐は滅んで、宋になっていたようですが、あっちの国は基本的に「もろこし」です。
宇治拾遺の前の方に、彼の出家時のエピソードが出てきます。
巻四 (59)三川の入道、遁世の事
鉢が飛ぶ:
巻八 (101)信濃国の聖の事
にも出てきます。
でも、さすがはもろこしの国。鉢を飛ばすのは、一人や二人じゃありませんね。
[3回]
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