昔、慈覚大師が、日本へ仏法を習い伝えようと、
唐の国へ渡られた時のこと。
唐の会昌年中、武宗皇帝が仏法を滅ぼそうとして、
堂塔を破却せしめ、僧尼を捕えては殺したり強制的に還俗させるなどの、
大乱が起きた。
大師も捕まりそうになったため、逃げて、とある堂の中へ入ったが、
朝廷の使者は堂の中へ入って探すので、
大師は仕方なく仏像の中へ逃げ込み、不動尊を念じていた。
そして大師を探す使者が、仏像の中を見たところ、中に新しい不動尊が入っている。
不思議に思い、それを抱き下ろしてみると、大師が元の姿を見せたから、
使者は驚いて、皇帝にこの旨を奏上すると、帝は、
「他国の聖だ。すみやかに追い払うべし」
と仰せになったため、大師は命を取られることなく、追放と決まった。
さて慈覚大師は一安心して、他国へ逃げ込んだところ、
はるかな山を隔てて、人家があった。
築地を高く巡らした間に門があり、そこに人が立っている。
大師がほっとして、尋ねたところ、
「ここは、さる独り身の長者の家です。御僧はどこの方ですか」
「日本国から、仏法を習い伝えるため、渡唐した僧です。
このような浅ましき大乱に遭遇し、しばらく身を隠したいと思うところですが」
と言うと、
「ここは滅多に人も参らぬところなれば、しばらくここにいらっしゃり、
世間が静まった後で出て、仏法を習えば良いでしょう」
と言うので、大師は喜んで中へ入った。
男が門をきっちり閉め、奥の方へ行くので、あとについて行くと、
中はさまざまな家が建てられて、大勢の人がいて、騒がしいようだった。
大師は、その傍らへ案内された。
さて、ここに仏法を習うような場所はあるかと、あちこち見て歩いていると、
経典も僧侶もまったく見えなかった。
後方の山に一つの小屋がある。
近寄り、耳を澄ませたところ、大勢の人のうめく声が聞こえたため、
大師が不思議に思い、垣根の間から見れば、
人をしばり、上から吊りさげた足元へ壺などを据えて、
そこへ血を垂らし入れていたのである。
大師は驚き怖れ、理由を尋ねてみるが、返事もない。
いよいよ不審に思い、別の建物の様子をうかがうと、
ここでも同じようにうめく音がする。
恐怖しつつ見れば、
色あさましく青ずんだ者たちが大勢、痩せこけたまま臥せっているのだ。
(つづく)
原文
慈覚大師入纐纈城行事
昔、慈覚大師、佛法をならひ傳へんとて、もろこしへ渡給ておはしける程に、會昌年中に、唐武宗、佛法をほろぼして、堂塔をこぼち、僧尼をとらへて失ひ、或は還俗せしめ給乱に合給へり。大師をもとらへむとしけるほどに、逃て、ある堂のうちへ入給(たまひ)ぬ。その使、堂へ入てさがしける間、大師、すべきかたなくて、佛の中に逃いりて、不動を念給ける程に、使求けるに、あたらしき不動尊、佛の御中におはしける。それをあやしがりて、いだきおろしてみるに、大師もとの姿になり給ぬ。使、おどろきて、御門に此よし奏す。御門仰られけるは、「他国の聖なり。すみやかに追ひ放つべし」と仰ければ放ちつ。
大師、喜て、他国へ逃給に、はるかなる山をへだてて、人の家あり。築地高くつきめぐらして、一つの門あり。そこに、人たてり。悦をなして、問ひ給に、「これは、ひとりの長者の家なり。わ僧は何人ぞ」と問ふ。答ていはく、「日本国より、佛法ならひつたへむとてわれたる僧なり。しかるに、かく浅ましき乱れにあひて、しばらくかくれてあらんと思ふなり」といふに、「これは、おぼろけに人のきたらぬ所也。しばらくここにおはして、世しづまりてのち出て、佛法も習給へ」といへば、大師喜をなして、内へいりぬれば、門をさしかためて、おくのかたに入に、しりにたちて行て見れば、さまざまの屋どもつくりちづけて、人多くさわがし。かたはらなる所に据ゑつ。
さて佛法ならひつべき所やあると、見ありき給に、佛經、僧侶等すべて見えず。うしろの方、山によりて一宅(たく)あり。よりて聞けば、人のうめく聲あまたす。あやしくて、垣のひまより見給へば、人をしばりて、上よりつりさげて、下につぼどもを据ゑて、血をたらし入る。浅ましくて、故を問へども、いらへもせず。大にあやしくて、又異所を聞けば、おなじくによふ音す。おぞきて見れば、色あさましう青びれたる者どもの、やせ損じたる、あまた臥せり。
適当訳者の呟き:
大衆文学の名品、国枝史朗「神州纐纈城」の元ネタです。
青空文庫でも読めます。個人的になかなか好きな小説でして、宇治拾遺も、とうとうこの現代語訳まで来たのだなあと、ちょっと感慨深いです。
年をまたいで続きますー!
慈覚大師:
円仁。最澄のお弟子さんで、最後の遣唐使の一人として唐に渡り、すぐに帰らなくちゃいけないところを、不法残留して、仏教を学びまくったという、ありがたいお坊さんです。
会昌:
かいしょう。唐の年号。841-846年。
日本だと平安前期。承和の変(842年)とかで、日本史の教科書で、藤原氏の他氏排斥が登場し始める頃です。
会昌の廃仏:
慈覚大師が唐にいらっしゃる間、道教にのめりこんだ武宗皇帝が仏教を弾圧しまくったというのは史実です。
――寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は260,500人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が150,000人、とwikipediaに書いてありました。規模が違いますね。
ちなみに慈覚大師が記した「入唐求法巡礼行記」は、この時代の社会風俗や、弾圧の様子が分る、世界的にも貴重な書物になっているようです。
纐纈:
こうけち、こうけつ。画数は多いですが、要するに、絞り染めのことです。
平安貴族的には、優雅な織物が好まれたようですが、民衆や侍といった中級以下では、奈良時代以降、大流行した模様です。
題名について:
あたくしのコピペ元では、「慈覚大師入(り)纐纈(かうけち)城(じゃう)行(く)事」となってまして、要するに「慈覚大師、纐纈城へ入り行く事」なのですが、資料によっては、「慈覚大師、纐纈城へ行き給ふ事」になっています。
これを適当に考えますと、元々「入り行く」だったのが、大師様の事跡なんだから敬語だべ! ということで、「行き給ふ」と書く写本もできたのかもしれません。違うかもしれません。
[8回]
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