昔、天竺の人が宝を買わせるため、
五十貫の銭を息子に持たせて、遣いにやった。
さてその息子が、大きな川の傍を行くうち、舟に乗った男に行き会った。
舟の上を見ると、亀が首を延ばしている。
銭を持った男は立ち止まり、
「この亀は、何にするのですか」
と聞くと、
「殺してあれこれ使うのだ」
と言う。
「その亀、買います」
男が言うと、舟の者は、
「たいへん重要なことのために手に入れた亀だから、
どれだけ大金を積まれても売れないよ」
と言うのを、男は切に手をこすりあわせて、
持っていた五十貫の銭で亀を買い取ると、川へ放してやったのである。
しかるに、男が心中で思うには、
「隣の国までと、親が宝を買わせるためにくださった銭を、
亀に替えてしまったからには、どれほどお腹立ちになるだろう」
しかし、そうは言っても、親のもとへ帰らないわけには行かないから、
ともかく帰りかけると、途中で、人から、
「最前あそこで亀を売っていた男だが、この先の渡りのところで、
舟をひっくり返して死んだぞ」
ということを聞いた。
家に帰り、男が銭は亀と引き替えにしたと伝えようとしたところ、
親が先に、
「どうしておまえは、この銭を送り返させたのだ」
と言う。
「そんなことはありません。その銭は、しかじか、亀と引き替えにしたのです。
亀は川へ放したので、それをお伝えしようと帰ってきたのです」
息子がそう言うと、親は、
「だが黒い衣を着た、同じような恰好の人が、五人ほど、
それぞれ十貫ずつ持って来たよ。これが、それだ」
と見せると、親の手にある銭は、今も濡れたままであった。
この息子が買っい取って、放してやった亀が、素早くも、
銭が川へ落ちたと見るなり拾い上げ、
親のもとへ、息子が帰るより先に届けたものであった。原文
亀を買て放つ事
昔、天竺の人、たからを買はんために、銭五十貫を子にもたせてやる。大なる川のはたをゆくに、舟に乗たる人あり。舟のかたを見やれば、舟より、亀、くびをさしいだしたり。銭もちたる人、たちどまりて、此亀をば、「何の料ぞ」と問へば、「ころして物にせんずる」といふ。「その亀買はん」といへば、此舟の人いはく、いみじきたいせつのことありて、まうけたる亀なれば、いみじき價なりとも、うるまじきよしをいへば、なほあながちに手をすりて、この五十貫の銭にて、亀を買ひとりて放ちつ。
心に思うやう、親の、たから買に隣の国へやりつる銭を、亀にかへてやみぬれば、親、いかに腹立給はんずらん。さりとて、また、親のもとへ行かであるべきにあらねば、親のもとへ帰り行に、道に人のゐて云やう、「爰(ここ)に亀うりつる人は、このしもの渡りにて、舟うち返して死ぬ」と語るを聞て、親の家に帰りゆきて、銭は亀にかへつるよしかたらんと思程に、親のいふやう、「何とてこの銭をば、返しおこせたるぞ」と問へば、子のいふ、「さることなし。その銭にては、しかじか亀にかへてゆるしつれば、そのよしを申さんとて参りつるなり」といへば、親の云やう、「黒衣(くろきころも)きたる人、おなじやうなるが五人、をのをの十貫づゝもちてきたりつる。これ、そなる」とて見せければ、この銭いまだぬれながらあり。
はや、買ひて放しつる亀の、その銭川におち入をみて、とりもちて、親のもとに、子の帰らぬさきにやりけるなり。適当訳者の呟き:亀が、舟をひっくり返して殺したわけじゃないですよね。。。
放生:仏教的思想で、捕まった動物や魚を逃がしてやることで、善根を積みます。
息子的には、親のために、財宝を手に入れるよりも善根を積んであげたのだ、ということになるのだと思います。
[19回]
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