昔、備中の国にある郡司がいて、
その息子に、ひのきまき人、という名の男がいた。
若い時、何かの夢を見たので、夢占いをしてもらおうと、
夢解きの巫女のもとへ行き、占ってもらった後、
あれこれ話をしているうち、大勢の人の話し声が聞こえてきた。
国守の御嫡男である。
年は十七八、心ばえは知らないが、姿は麗しかった。
四五人の供を引き連れ、
「ここが夢解き巫女の家か」
と言うと、供の侍が、
「その通りでございます」
と入ってくるので、まき人は家の奥へ入って、穴から隣の様子を覗き込んだ。
やがて国守の嫡男は、巫女の前に来ると、
「このような夢を見た。いかなる意味か」
と語って聞かせた。
聞き終えた巫女は、
「世にもたいそうな夢です。必ず大臣にまでのぼられましょう。
返す返す、おめでとう存じます。ですが、あなかしこ、あなかしこ。
決して人に語ってはなりませんよ」
そのように伝えると、国守の嫡男は悦んで着物を脱ぎ、巫女へ与えて、
そして帰って行った。
さて、まき人。
部屋から出て巫女へ言うには、
「夢を取る、ということがあるだろう。あの君の夢を、わしに取らせてくれ。
国守などといっても、四年を過ぎれば国を出て、京へ戻る。
だがわしは国人ゆえ、いつまでもこの地にいる上、郡司の子だ。
おまえも、わしを大事に思うであろう」
と言うと、巫女は、
「仰せの通りにいたします。ではまず、最前いらした君のごとくに、お入りになって、
その語られた夢を、少しも違えずにお語りください」
というと、まき人は悦んで、さきほどの若者と同じように家に入り、
夢語りをすると、巫女も同じように返した。
まき人、たいへん喜ばしく思い、衣を脱いで巫女に取らせ、
そして立ち去ったのだった。
その後、まき人は文章を習ううち、もろもろのことに通暁し、才知豊かな人となった。
朝廷でもそのことを聞いて、試験してみると確かに才能があるので、
唐の国へ、
「物事をよくよく習うように」
と遣わした。
そしてまき人は、久しく唐の国に滞在した後、さまざまのことを習い、我国へ伝えたため、
帝も立派な人物だと思し召し、次第次第に昇進させて、
大臣にまで任じられたのである。
このように、夢を取る、ということは重要なことである。
夢を取られた備中守の子は、役職の無いまま終ってしまった。
夢を取られなければ、大臣にまでなっていただろうに、
これゆえ、人に夢を聞かせてはならないと、言い伝えられているのである。原文
夢買人事
昔、備中国に郡司ありけり。それが子に、ひのきまき人といふ有けり。わかき男にて有ける時、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女のもとに行て、夢あはせて後、物語してゐたる程に、人々あまた声して来なり。国守の御子の太朗君のおはするなりけり。年は一七八ばかりの男にておはしけり。心ばへはしらず、かたちはきよげなり。人四五人斗具したり。「これや夢ときの女ももと」と問へば、御供の侍「これにて候」といひて来れば、まき人は上の方のうちに入て、部屋のあるに入りて、あなよりのぞきて見れば、此君、いり給、「夢をしかじか見つるなり。いかなるぞ」とて、かたりきかす。女、聞きて、「よにいみじき夢なり。必大臣までなりあがり給也。返々、めでたく御覧じて候。あなかしこあなかしこ、人にかたり給な」と申ければ、この君、うれしげにて、衣をぬぎて、女にとらせて、かへりぬ。
その折、まき人、部屋より出て、女にいやふう、「夢はとるといふ事のあるなり。この君の御夢、われらにとらせ給へ。国守は四年過ぬれば返りのぼりぬ。我は国人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめ」といへば、女「のたまはんなゝに侍べし。さらば、おはしつる君のごとくにして、いり給て、その語られつる夢を、露もたがはず語り給へ」といへば、まき人悦て、彼君のありつるやうに、いきりて、夢がたりをしたれば、女おなじやうにいふ。まき人、いとうれしく思て、衣をぬぎてとらせてさりぬ。
その後文をならひよみたれば、たゞ通りに通りて、才ある人になりぬ。おほやけ、きこしめして、試みらるゝに誠に才深くありければ、もろこしへ、「物よくよくならへ」とて、つかはして、久しくもろこしにありて、さまざまの事どもならひつたへて歸りてりければ、御門(みかど)、かしこき者におぼしめして、次第になしあげ給て、大臣までになされにけり。
されば夢とることは、げにかしこしことなり。かの夢とられたりし備中守の子は、司(つかさ)もなきものにて止みにけり。夢をとられざらましかば、大臣までも成なまし。されば、夢を人に聞かすまじきなりと、いひつたへける。適当訳者の呟き:夢を買ったというか、盗んだようなものですね。
ひのきまき人:注釈書やWikipediaなどによれば、吉備真備のことです。
奈良時代の有能な政治家で、浮き沈みがありますが、遣唐使として2度も唐の国に渡るなど、我国古代史に欠かせない人物。
敵も多く、藤原広嗣の乱の原因だと言われたり、藤原仲麻呂(恵美押勝)に追い出されたりしますが、2度目の遣唐使で出かけた帰りに鑑真を連れて帰ったり、後で東大寺をつくるなどして、最後には、天下一の巨根・道鏡の下で右大臣に昇進しています。
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