今は昔、三条上皇が、石清水八幡へお出ましになった際、
左京ノ下官で、邦の俊宣という者が、上皇に供奉していた。
やがて長岡の寺戸という辺を過ぎるとき、人々が、
「この辺は、迷い神がいるところらしい」
などと話しているので、
「この俊宣も、その話は聞いたことがあるぞ」
と言いながらさらに行くうち、
寺戸の辺を過ぎないうちに、日が次第にくれてきたから、
俊宣は、今は山崎の辺まで到着しているはずなのに、
不思議にも、また同じ長岡の辺を過ぎ、また乙訓川の上を過ぎるぞ、
と思っているうち、再び寺戸の岸へあがった。
そうして寺戸を行き過ぎ、さらに歩いているうちに、乙訓川に来たので、
これを渡ると思えば、また少し行って、桂川を渡るのだった。
すっかり日の暮れ方。
振り返れば、後ろには誰一人見えなくなって、
前後にずらりと並んでいたはずの人々も見えない。
夜も更けたので、ともかく寺戸の西にある板屋の軒先で馬を下り、
夜を明かして早朝、俊宣が思うには、
「自分は左京の官人だから、九条の内に留まるべきであるのに、
このようなところまで来たのは、何としても道理に合わぬ。
それに同じ場所を夜の間中めぐり歩かされたのは、
九条の辺から迷い神に取り憑かれ、連れていたことを知らずに、こうしているためだ」
と、日が昇った後、西京にある自宅へ帰ったのだった。
これは俊宣が、まさしく語ったことである。
原文
俊宣まどはし神にあふ事
今は昔、三条院の八幡(やはた)の行幸に、左京属(さきゃうのさくわん)にて、邦の俊宣といふ者の供奉したりけるに、長岡に寺戸といふ所の程行きけるに、人どもの、「この辺には、迷神(まよひがみ)あんなる辺ぞかし」といひつつ渡る程に、「俊宣も、さ聞くは」といひて行く程に、過ぎもやらで、日もやうやうさがれば、今は山崎のわたりには行き着ぬべきに、怪しう同じ長岡の辺を過ぎて、乙訓川の面を過ぐと思へば、また寺戸の岸を上る。寺戸過ぎて、また行きもて行きて、乙訓川の面に来て渡るぞと思へば、また少し桂川を渡る。
やうやう日も暮方になりぬ。後先(しりさき)見れば、人一人も見えずなりぬ。後先に遙にうち続きたる人も見えず。夜の更けぬれば、寺戸の西の方なる板屋の軒におりて、夜を明して、つとめて思へば、我は左京の官人なり。九条にてとまるべきに、かうまで来つらん、きはまりてよしなし。それに同じ所を、夜一夜めぐり歩きけるは、九条の程より迷はかし神の憑きて、率て来るを知らで、かうしてけるなめりと思ひて、明けてなん、西京の家には帰り来たりける。俊宣が正しう語りし事なり。
適当訳者の呟き:
ループものですね。
三条院:
三条天皇、上皇。藤原道長に圧迫され、譲位。摂関政治が完成した際の上皇さまです。
眼病を患われていたそうです。
百人一首にも登場。
心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな
左京属(さきゃうのさくわん):
さかんは、かみ、すけ、じょう、さかんのうちの下っ端。
左京の市場を管轄する、京職のうちの、下官。正しくは、「令史」になるのだと思います。
邦の俊宣:
不明ですが、今昔物語では、「左京属邦利延、迷はし神にあひし語」というふうに出てきます。
ちなみに今昔物語の内容は、ほとんど宇治拾遺と同じです。
乙訓川:
おとくにがわ。京都から南東の石清水八幡宮へ行くには、
桂川を越え、寺戸(今の向日市)を越えて長岡京、さらに乙訓郡、山崎と来て、淀川を渡って、石清水八幡、
というルートになると思います。
だいたいの道をグーグルマップで確認すると、今の国道171号線を通る感じです。
京都の三条からだと約21キロ。てくてく歩いて、4時間半くらいと出ます。
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