今は昔、陽成天皇が帝の位を降りられた後の御所は、
内裏の北、西洞院通と油小路の間にあって、
そこは化物が住んでいるところであった。
大きな池の上の釣殿に、ある夜、警護の者が寝ていた時のこと。
真夜中、ほそぼそとした手がこの男の顔を、そっとそっと撫でたため、
不審な奴――と思い、太刀を抜き、片手で摑みかかれば、
浅黄色の裃を着た老人が、ことのほか侘びしげに、
「我はこれ、昔よりここへ住まいする、ぬしである。
浦島太郎の弟で、往古よりこの地に住んで千二百年になる。
願わくば、許せ。ここに社を造り、我を祝い給え。
さすればどのようにしても、守護し奉らん」
だが、この警護の者が、
「わしの一存では難しい。この旨を院に申し上げて後のことに……」
と答えると、老人は、
「憎き男の言いぐさかな」
と言って、三度、この男を天井へと蹴りあげ、蹴り上げすると、
ぼろぼろのくたくたになって男が落ちてくるのを、口を大きく開けて喰ってしまった。
普通の者ほどの老人と見ていたのが、にわかに大きくなり、
警護の者をたった一口に食ってしまったのである。
原文
陽成院ばけ物の事
今は昔、陽成院おりゐさせ給ての御所は、宮(大宮)よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東にてなむありける。
そこは物すむ所にてなんありける。大なる池の有ける釣殿に、番の物ねたりければ、夜中ばかりに、ほそぼそとある手にて、この男が顔をそとそとなでけり。けむつかしと思て、太刀をぬきて、かた手にてつかみたりければ、浅黄の上下(かみしも)着る翁の、ことの外に物わびしげなるがいふやう、「我はこれ、昔住しぬしなり。浦嶋が子の弟なり。いにしへより此所にすむて、千二百餘年になるなり。ねがはくはゆるし給へ。こゝにやしろを作りていはひ給へ。さらばいかにもまぼり奉らん」と云けるを、「わが心ひとつにてはかなはじ。此よしを院へ申てこそは」といひければ「にくき男の云事哉とて、三度、上様へ蹴上げ蹴上げして、なへなへくたくたとなして、落つるところを、口をあきて食ひたりけり。なべての人ほどなる男とみる程に、おびたゝしく大になりて、この男を唯一口に食へてけり。
適当訳者の呟き:
魔法少女まどかマギカに、こんな場面があったような気がしますね。
陽成院:
陽成天皇(869-949年)。9歳でご即位、17歳で退位された後、65年間も上皇様でした。
早すぎる退位については、源ノ益さんを殴り殺したためとか、藤原基経との権力争いに負けたためとか言われてますが、とにかく上皇歴の長い、変ったお人柄だったことは疑いないです。
宇治拾遺にも前に、106話の「
滝口道則、術を習う事」で、「陽成の帝が、外法を学ばれて」と出てきました。
宮(大宮)よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東:
上皇さまのお住まい、仙洞御所のあった場所。
今でも西洞院通と油小路は、間に一本小道がありますが、ほぼ隣の道路です。京都駅を出てすぐぐらいにある、南北の道。
宮、大宮というのは、内裏のことなので、要するに、今だと京都府庁に近い辺に、御所があったのだと思われます。
浦島の子の弟:
浦島太郎の弟だというのが出てきて、びっくりです。
ちなみに、検索してみると、浦島太郎は三兄弟で、弟に、曾布谷次郎、今田三郎というのがいたという伝説があるとか。まじですか。
ちなみにもっとも古い形らしい、「丹後風土記」に出てくる浦島太郎の伝説は、雄略天皇(在456 - 479年ぐらい)の出来事とありますので、ここで浦島太郎の弟が1500歳になると主張するのは、年表的にはおかしいですが、とりあえず宇治拾遺の時代にも「浦島太郎の昔話」は、大昔の話だったという認識だったということですね。
[8回]
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