(最初から)
その後、月の明るいある夜。
人が集って、寝入る者がいる中、中将が月を観賞しながら佇んでいると、
何者かが築地塀を飛び越え、庭へ降りた、と見ると、
背後から中将をかっさらい、飛ぶようにして、表へ出て行くのである。
驚き惑い、何が何だか分らないうちに、おそろしげな連中が群がってきて、
中将を彼方の山の、けわしくおそろしげな場所へ引き連れて行くと、
柴を高く編んだようなものの上へ中将を引き据え、
「賢しらなことを為す者をこうするのだ。
大したことでもないことを重罪のように言い、
わしに憂き目を見せたその返答として、焙り殺してくれる」
と、火を山のように焚いたため、夢を見ているような心地になって、
中将はまだ若く弱々しい折でもあったから、気を失いかけた。
やがて熱さはひたすら熱くなり、もうすぐに死ぬのだと観念したところ、
山の上から、ゆゆしき鏑矢が射かけられたため、そこにいた者たちが、
「これは何だ」
と騒ぎ回る中にも、雨の降るように射かけられるので、
連中も少しは射返したが、相手は人数多く、対抗すべきようもなくて、
火がどうなったかも知らずに射散らされて逃げ去るのだった。
そんな折、一人の男が中将の前に出てきて、
「どれほど恐ろしく思し召されましたことか。
わたくしはあの月あの日、囚われて引かれて行くところを、
あなた様の御徳をもちまして許された者でございまして、世にも嬉しく、
ご恩をお返しせねばと思っておりましたところ、
あなた様が、かの法師を悪しく仰せになったと、ずっとこの者たちが見張っていたので、
そのことをお告げしようと思いながら、ともかく私が備えておればと存じておりましたところ、
たまたま、つい離れた折にこのようなことになってしまい、
あなた様が築地から連れ去られてきたので、追いかけて留めようともしましたが、
その場にて捕えようとすれば殿様へ御傷など負わせてしまうかと案じ、
ようやくこの場にて、連中を追い払い、お迎えに参ったものです」
と言って、それから中将を馬へと抱き乗せて、確かに、もとのところへ送り届けたのだった。
ほのぼのと明るくなる頃に、帰還したという。
年を重ね、大人になった後、中将は、
「このようなことに遭ったぞ」
と人に語ったという
四条の大納言のことだというのは、まことであろうか。
原文
或上達部中将の時召人にあふ事(つづき)
さて月あかかりける夜、みな人はまかで、あるは寝入りなどしけるを、この中将、月にめでて、たゝずみ給ける程に、物の築地をこえておりけると見給程に、うしろよりかきすくひて、とぶやうにして出でぬ。あきれまどひて、いかにもあぼしわかぬほどに、おそろしげなる物來集ひて、はるかなる山の、けはしく恐ろしき所へ率て行て、柴のあみたるやうなる物を、たかくつくりたるにさし置きて、「さかしらする人をば、かくぞする。やすきことは、ひとへに罪重くひなして、悲しきめを見せしかば、其答(たふ)に、あぶりころさんずるぞ」とて、火を山のごとくたきければ、夢などを見るここちして、わかくきびはなるほどにてはあり、物おぼえ給はず。あつさは唯あつになりて、たゞ片時に、死ぬべくおぼえ給けるに、山のうへより、ゆゝしきかぶら矢を射をこせければ、ある者ども、「こはいかに」と、さはぎける程に、雨のふるやうに射ければ、これら、しばしこなたよりも射けれど、あなたには人の數おほく、え射あふべくもなかりけるにや、火の行衞もしらず、射散らされて逃て去にけり。
其折、男ひとりいできて、「いかに恐ろしくおぼしめしつらん。をのれは、その月の其日、からめられてまかりしを、御徳にゆるされて、世にうれしく、御恩むくひ參らせばやと思候つるに、法師のことは、あしく仰せられたりとて、日比うかゞひ參らせつるを見て候ほどに、つげ參らせばやと思ひながら、わが身かくて候へばと思ひつるほどに、あからさまに、きとたち離れ參らせて候つる程に、かく候つれば、築地をけていで候つるに、あひ參らせて候つれども、そこにてとり參らせ候はば、殿も御きずなどもや候はんずらんと思ひて、こゝにてかく射はらひてとり參らせ候つるなり」とて、それより馬にかきのせ申て、たしかに、もとのところへ送り申てんげり。ほのぼのと明るほどにぞ歸給ひける。
年おとなになり給て、「かゝることにこそあひたりしか」と、人にかたり給けるなり。四條の大納言のことと申は、まことやらん。
適当訳者の呟き:
助けに来た男の台詞が長々としていて、いかにもな古典文章だと思いました。せっかくなので、切らずに訳してみましたが、ちと読みにくいですね。。。
或上達部中将、四条の大納言:
藤原公任。きんとう。藤原道長・一条天皇の時代の、「四納言」の一人。康保3年(966)~長久2年(1041)。
百人一首の大納言公任。歌は、
滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
法律家としても有能だったらしく、検非違使の別当(長官)だった時、罪人に申し渡す判決文に、従来、刑期が書かれていなかったのを、刑期を書いて、罪状を当人に明らかにするよう制度を改めたという逸話が残ってます。
中将:
ちなみに藤原公任が、左近衛権中将に任じられたのは、天元6年(983)12月13日と記録がはっきりしていますので、この話は、彼が17歳とか、18歳ぐらいの時のことだと思われます。
ちなみに公任は藤原の北家ですが小野宮流といって、道長の系統(九条流)とは違います。
[2回]
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