今は昔、
唐土の孔子が、道を行く途中、八歳ぐらいになる童子に出会った。
その子が、孔子に向って尋ねるには、
「日が沈むところと、洛陽は、どちらが遠いですか」
孔子は、
「日が沈むところは遠く、洛陽は近い」
童子は、
「でも日が昇るところ、沈むところは見たことがあるけど、洛陽は見たことはない。
だから日が昇るところは近くて、洛陽は遠いと思う」
そのように言うと、孔子は賢い子供だと感心した。
「孔子に、あのようにものを尋ねる者はいないのに、
ああして問いかけたのだ。あの子は、ただ者ではないぞ」
そのように、人々は語ったという。
原文
八歳の童(わらは)孔子問答の事
今 は昔、唐(もろこし)に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子に問ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔 子いらへ給ふやう、「日の入る所は遠し。洛陽は近し」。童の申すやう、「日の出で入る所は見ゆ。洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は 遠しと思ふ」と申しければ、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。「孔子には、かく物問ひかくる人もなきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」 とぞ人いいける。
適当訳者の呟き
時々、孔子様が出てきますね。
この話は、中国の古典「世説新語」の中の「夙慧篇」に、元ネタがあるみたいです(以下読み下し)。
晋の明帝数歳にして、元帝の膝上に坐せしとき、人有り長安より来る。元帝、洛下の消息を問ひて、潸然として涕を流す。明帝問ふ、何を以て泣くを致せると。つぶさに東渡の意を以て之に次ぐ。因りて明帝に問ふ、汝が意に謂らく、長安は日の遠きに如何と。答へて曰く、日遠し。人の日辺より来るを聞かず。居然として知るべしと。元帝之を異とす。明日群臣を集めて宴会し、告ぐるに此の意を以てし、更に重ねて之を問ふ。乃ち答へて曰く、日近しと。元帝色を失ひて曰く、爾、何の故に昨日の言に異なるやと。答へて曰く、目を挙ぐれば日を見るも、長安を見ずと。
――晋の明帝が幼い頃。父親の元帝の膝の上にい ると、長安からやって来た人があり、長安の様子を聞いた元帝が、さめざめ泣き出したため、幼子の明帝が、
「どうして泣くのですか」
と尋ねると、父親は西晋滅亡の悲劇を語って、
「長安と、太陽と、どちらが遠い」
「それは太陽の方が遠いです。未だ太陽のから人が来たとは聞きませんので」
元帝は感心して、翌日の宴会で、群臣を前に、同じことを尋ねた。すると今度は、
「太陽の方が近いです」
と言ったため、元帝はびっくりして、
「なぜ昨日と違うことを言うのだ」
すると明帝は、
「目を上げれば太陽は見えますが、長安は見えません」
ちなみに晋の皇帝は、三国志で有名な司馬懿・仲達の子孫です。永嘉の乱という異民族の反乱で、首都陥落、事実上は滅亡しますが、王族の一人が南へ逃れて東晋の元帝として復活。その時の話ですね。
ちなみに世説新語のこの話は、世界中に広まっているようで、紀貫之の「土佐日記」にも、
「漢詩(からうた)に『日を望めば都遠し』などいふなることのさまを聞きて」
というふうに出ているそうです。
[7回]
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