今は昔、
河原院というところは、左大臣・源ノ融(とおる)公の屋敷であった。
陸奥・塩釜の地にある釜を模したものを造り、海水を取り寄せて焼き塩をつくるなど、
さまざまな興趣に富んだことをしながら、住んでいたという。
やがて融公が亡くなった後は、宇多院に献上され、
御子の醍醐天皇も、たびたび訪問されることがあった。
さて、宇多院がこの屋敷に住まわれていた時のこと。
ある夜中、何者かが西の対屋の塗籠の納戸を開け、
そよそよと物音をさせながら、近づいて来るような気がしたため、
家来に確かめさせると、昼の装束をうるわしく着込み、太刀をはき、笏を手にした人が、
二間ほどさがったところに、かしこまっていた。
「そこにいるのは何者だ」
と尋ねさせると、
「ここの主でございました、翁にござります」
と返答する。
「では、源ノ融の大臣か」
と再び尋ねさせると、
「その通りでござります」
と申し上げる。
「それで、どうされたか」
「ここは私の家なれば、住んでおりましたところ、
院がお越しになり、かたじけなく存じますが窮屈に感じられ、どうしたらよろしいかと」
そんなふうに申し上げたところ、院は、
「それは実に怪しからぬことではないか。
故大臣の子孫が私に与えたゆえ、私がここへ住まうのだ。
私が強引に奪い取って住んだならともかく、礼儀知らずに、このように恨むとは何事か」
と、声も鋭く仰せになれば、融公はかき消えるようにいなくなった。
その当時の人々は、
「宇田院は、たいそうな方におわします。
ふつうの人は、その大臣に会えば、そんなふうに鋭く言い返せないだろうに」
と言うのだった。
原文
河原の院に融公の霊住む事
今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃(しおがま)の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門度々行幸ありけり。まだ院、住ませ給ひける折りに、夜中ばかりに、西の対の塗籠をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、晝(ひ)の装束麗しくしたる人の、太刀はりて、笏取りて、二間ばかりのきて、畏りて居たり。「あれは誰そ。」と問はせ給へは、「こゝの主に候翁なり。」と申す。「融のおとゞか。」問はせ給へば、「しかに候。」と申す。「さはなんぞ。」と仰せらるれば、「家なれば住み候に、おはしますがかたじけなく所狭(せ)く候なり。いかゞ仕ふべからん。」と申せば、「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我にとらせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ。禮も知らず、いかに此くは怨むるぞ。」と、高やかに仰せられければ、掻い悄つやうに失せぬ。その折の人々「猶御門は将殊(はたこと)におはします者なり。たゞの人はそのおとゞに逢ひて、さやうにすくよかには言ひてや。」とぞいひける。
適当訳者の呟き:
源融さんも、相手が帝だし、どうしたら良いかと迷っていたでしょうね。。。
河原の院
六条河原院。広大な屋敷として有名で、ここに出てくるように、源融の死後は子の昇が相続、昇から宇多上皇へ献上されて、仙洞御所(上皇のお住まい)になりました。
融の左大臣
源ノ融。みなもとのとおる。嵯峨源氏融流の始まり。嵯峨天皇の御子。
「源氏物語」の光源氏のモデルになったという説もあります。
百人一首は「河原左大臣」として登場。
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
――陸奥の「信夫捩じ摺り」のごとく誰のために乱れ染まったか。私のせいではないよ。
ちなみにご子息もみんな一文字でして、湛、泊、昇、望、副というみたいです。
宇多院
宇多天皇。醍醐天皇のお父様。
菅原道真などを重用して、寛平の治などといって、良い政治を行われますが、にわかに譲位(藤原氏に対抗する意味とか、仏門へ入るためとか諸説あり)、結局、菅原道真左遷に至ることになります。
宇田院から見ると、源ノ融は、大叔父(祖父の弟)に当ります。
延喜の帝
醍醐天皇。
[4回]
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