(最初から)
殿上人たちは、堀川中将へ向い、
「このように起請を破るなど、実にけしからぬこと」
「この上は我らが定めた通り、すみやかに酒や果物を取りにやり、償いをするべし」
と集まり、責め立た。
だが堀川中将は抵抗し、
「しない」
と償いを拒んだが、執拗に、しつこく責められるので、
「では明後日、『青常(あおつね)の君』の償いをする。殿上人に蔵人は、その日に集りたまえ」
と言って、出て行った。
さて当日。
「堀川中将殿が、『青常の君』の償いをするぞ」
というので、屋敷へ集らない人は無いほどであった。
そして、座敷へ居並んだ殿上人が待ち構えている前へ、
堀川中将が、光輝くような直衣姿で出てきた。
お香もことばにならぬほど芳ばしく、魅力がこぼれ出るような恰好。
だが見れば、直衣の長々とした裾から、練り打ちされた青の内着がのぞき、指貫の袴も青。
さらに彼に従う随身三名も、青い狩衣に青い袴を着ている。
一人は、青く塗ったお盆の上に青色の皿を置き、そこへ、こくわという猿梨を載せ、
また一人は、竹の杖に山鳩を4-5羽つけたものを運んでいる。
さらに一人は、青地の瓶に酒を入れて運び、しかも瓶の注ぎ口を青い薄布で包んでいた。
そういう青い人々が人々の前へ出てきたので、みな声を上げ、笑いどよめいた。
と、これを帝がお聞きになり、
「何事ぞ。殿上からおびただしく聞こえるのは」
とお尋ねになるので、女房の一人が、
「兼通が『青常』と呼んでしまったことを若い連中に責められ、
その償いをしているはずですが、それを笑っているようです」
と申し上げた。
帝が、
「どのように償っているのだ」
と、昼座所までお出ましになり、小蔀の隙間から覗かれれば、
当人はじめ、随身一同みな青色の装束で、
しかも青い食べ物を運ばせるという償いをしているので、
なるほど、これを笑ったのかと思し召し、
もはやお腹立ちになることもなく、帝もたいそう笑われたのだった。
この後は、懇切に叱る者も無くなったので、人々はいよいよ笑い、嘲るようになったという。
原文
青常事(つづき)
殿上人ども、「かく起請をやぶりつるは、いと便なきことなり」とて、「いひ定めたるやうに、すみやかに酒、くだ物とりにやりて、このことあがへ」と、あつまりて、責めのゝしりければ、あらがひて、「せじ」とすまひ給けれど、まめやかにまめやかに責めければ、「さらばあさてばかり、青常(あをつね)の君のあがひせん。殿上人、蔵人、その日あつまり給へ」といひて出給ひぬ。
その日になりて、「堀川中将殿の、青常の君のあがひすべし」とて、参らぬ人なし。殿上人ゐならびて待程に、堀川中将、直衣すがたにて、かたちは光るやうなる人の、香はえもいはずかうばしくて、愛敬こぼれにこぼれて、参り給へり。直衣のながやかにめでたき裾より、青き打たる出し衵(あこめ)して、指貫も青色の指貫をきたり。隨身三人、青き狩衣、袴着せて、ひとりには、青くいろどりたる折敷に、あをぢのさらに、こくはを、盛りてさゝげたり。今一人は、竹の杖に、山ばとを四五斗つけて持せたり。又ひとりには、あをぢの瓶に酒を入て、あをき薄様(うすやう)にて、口をつゝみたり。殿上の前に、もちつゞきて出たれば、殿上人どもみて、諸声に笑ひどよむことおびたゝし。御門、きかせ給て、「何事ぞ。殿上におびたゝしく聞ゆるは」と問はせ給へば、女房「兼通が、青常よびてさぶらべば、そのことによりて、をのこどもに責められて、その罪あがひ候を、笑候なり」と申ければ、「いかやうにあがひぞ」とて、昼御座(ひのおまし)にいでさせ給て、小蔀(こじとみ)よりのぞかせ給ければ、われよりはじめて、ひた青なる装束にて、青き食ひ物どもを持たせて、あがひければ、これを笑ふなりけりと御覧じて、え腹だゝせ給はで、いみじう笑はせ給けり。
その後は、まめやかにさいなむ人もなかりければ、いよいよなん笑あざけりける。
適当訳者の呟き:
ひどい。。。
貴族のいじめ伝統。平家物語で忠盛の「すがめ」を馬鹿にする程度、何てことは無いのですね。
堀川中将(補足):
関白・藤原兼通は、兄の伊尹、弟の兼家と激烈な権力闘争を行っているので(特に弟との争いは醜い)、「青常」といってしまった失言を若手からボロクソに言われるのも、多少関係していたかもしれません。「この俺が青常といったが、それがどうした」と開き直るあたりも。
ちなみに村上天皇の頃、天徳4年(西暦960年)に内裏が焼けています。殿上人たちの笑い声が帝のお耳に入るというわけで、兼通の屋敷が里内裏になっていたのかもしれません。
こくわ:
猿梨。ミニキウイとか呼ばれまして、青い実を食べます。
山ばと:
きじ鳩。食用で、幸福の「青い鳥」のモデルとも言われてますので、青いですね。
[3回]
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