今は昔。
鎮守府将軍・藤原利仁は、若いころ、さるお偉方の下で働いていたが、
ある年の正月の大宴会の後、
お屋敷の主人は、乞食や下賤の者へ食べ残しを放り投げる、恒例のとりばみを無しにして、
自分の家来たちに余り物をふるまった。
そういう家来の中に、長年お屋敷に仕えていた、五位という男があって、
食事の席上、芋粥をすすり、舌鼓を打って、
「いやはや、この芋粥を、飽きるほど食うことは出来ないものかねえ」
と満足そうに言った。
これを利仁が聞いて、
「五位の太夫殿は、芋粥に食べ飽きたことがございませぬか」
「食べ飽きるなどと、そんな経験、あるわけがござらん」
「そうですか。では私が飽きるほどご馳走いたしますよ」
「本当ですか。それはうれしいな」
と、そんな相談がまとまった。
さて、四五日して、五位の部屋へ利仁がやって来て、
「太夫殿、湯浴みへお出かけになりませんか」
「良い考えだ。今日は全身かゆくてならなかったので。しかしあいにく、乗物が無い」
「表に、貧相な駄馬ですが、用意いたしております。あれにお乗りください」
「それは結構なことだ」
それで五位は、薄綿の衣を重ね着して、
あおにび色の、裾のほつれた指貫に同じ色した狩衣を身につけ、
袴も着用せず、ごく気楽な恰好で出かけることになった。
五位は、鼻筋は高かったが、先が赤みを帯びており、
水っぱなを拭わぬのか、鼻の穴の辺は常に濡れているような男である。
狩衣の後ろは、帯のところで歪んでおり、
直そうともしないのでみっともないこと限りないが、
ともかく、そういう五位を先に、河原まで出た。
ちなみに五位にはお供の子さえ無かったが、
利仁のお供には、荷物持ちに舎人、雑色の三人までいた。
さて、鴨川を越えて粟田口へやって来たところで、
「はてどこへ行くつもりか、利仁殿」
と五位が聞くと、
「こちらでございます、こちら」
と言いながら、さっさと山科を過ぎてしまう。
「おいこれはどうしたかね。こっちだこっちだと、もう山科も通り過ぎましたぞ」
と問うと、
「あちらでございます、あちら」
とか言いながら、とうとう関山まで通過してしまった。
そうして、
「ここでございます、ここ」
と言いながら、五位も知っていた三井寺の僧侶のもとへ、ようやく到着するから、
「なるほど、ここで湯を使わせてもらうのだな。
それにしても、頭がおかしくなるくらい遠かったわい」
ほっと息を吐くと、案に相違して、ここにも湯は無いとのこと。
「何だ、結局どこで湯浴みをするのだ」
と言うと、
「実は、太夫殿を、敦賀までご案内しようと思いまして」
「え、敦賀? それは困るよ。それならそうと、せめて京都にいるうちに言ってくれなきゃ。
知っていれば下人などを連れてきたものを」
と呆れると、利仁は笑いながら、
「この利仁が一人おりますれば、千人力でございますよ」
などと言って、そこで飯などを食い、利仁は矢筒を腰に装備すると、
やがて二人、慌ただしく出立することになった。
さて、そんな感じで先へ行くうちに、琵琶湖岸の三津浜で、狐が一匹、走り出てきた。
これを見た利仁、
「よいところに使いが来た」
と馬上のその狐に襲いかかり、必死に逃げるところを追い詰め、後ろ足を引っつかんだ。
利仁の馬は、それほど立派ではないように見えたが、実際はなかなかの駿馬だったらしい。
利仁は、捕まえたばかりの狐に向って、
「狐よ。おまえ、今夜中に敦賀にあるわしの実家へ行き、
『急に客人をお連れするゆえ、明日の巳の時に、
高嶋辺りまで馬を二頭ほど鞍を置いて連れて迎えに出るように』
と伝えてこい。伝えねばどうなるか分っておろうな。
狐よ、おぬしは変化の類ゆえ、今日中に到着できるだろう。間違うなよ」
ときつく言うと、狐が泣きそうな声で、
「そんなご無体な」
「何だと。では行けるようにしてやろうか!」
こんなふうに脅されては、狐も一目散に行くしかない。
狐が後ろを振り返り、振り返りしながら行くのを眺めながら、
「あれなら、間違い無く行くだろう」
と利仁が呟くと、狐は駆けていった。
【つづき】
原文
利仁芋粥事
今は昔、利仁の将軍の若かりける時、その時の一の人の御許に恪勤(かくご)して候ひけるに、正月に大饗せられけるに、そのかみは、大饗果てて、とりばみといふ者を払ひて入れずして、大饗のおろし米とて給仕したる恪勤の者どもの食ひけるなり。
その所に年比になりて給仕したる者の中には、所得たる五位ありけり。そのおろし米の座にて、芋粥すすりて舌打をして、「あはれ、いかで芋粥に飽かん」とい ひければ、利仁これを聞きて、「大夫殿、いまだ芋粥に飽かせ給はずや」と問ふ。五位、「いまだ飽き侍らず」といへば、「飽かせ奉りてんかし」といへば、 「かしこく侍らん」とてやみぬ。
さて四五日ばかりありて曹司住みにてありける所へ利仁来ていふやう、「いざさせ給へ、湯浴みに。大夫殿」といへば、「いとかしこき事かな。今宵身の痒く 侍りつるに。乗物こそは侍らね」といへば、「ここにあやしの馬具して侍り」といへば、「あなうれし、うれし」といひて、薄綿の衣二つばかりに、青鈍の指貫 の裾破れたるに、同じ色の狩衣の肩少し落ちたるに、したの袴も着ず。鼻高なるものの、先は赤みて穴のあたり濡ればみたるは、洟をのごはぬなめりと見ゆ。狩 衣の後ろは帯に引きゆがめられたるままに、ひきも繕はねば、いみじう見苦し。をかしけれども、先い立てて、我も人も乗りて川原ざまにうち出でぬ。五位の供 には、あやしの童(わらは)だになし。利仁が供には、調度懸け、舎人、雑色一人ぞありける。川原うち過ぎて、粟田口にかかるに、「いづくへぞ」と問へば、 ただ、「ここぞ、ここぞ」とて、山科も過ぎぬ。「こはいかに。ここぞ、ここぞとて、山科も過しつるは」といへば、「あしこ、あしこ」とて関山も過ぎぬ。 「ここぞ、ここぞ」とて、三井寺に知りたる僧のもとに行きたれば、「ここに湯沸かすか」と思ふだにも、「物狂ほしう遠かりけり」と思ふに、ここにも湯あり げもなし。「いづら、湯は」といへば、「まことは敦賀へ率て奉るなり」といへば、「物狂ほしうおはしける。京にてさとのたまはましかば、下人なども具すべ かりけるを」といへば、利仁あざ笑ひて、「利仁一人侍らば、千人と思せ」といふ。かくて物など食ひて急ぎ出でぬ。そこにて利仁胡篆(やなぐひ)取りて負ひ ける。
かくて行く程に、三津の浜に狐の一つ走り出でたるをみて、「よき使ひ出で来たり」とて、利仁狐をおしかくれば、狐身を投げて逃ぐれども、追ひ責められ て、え逃げず。落ちかかりて、狐の後足(しりあし)を取りて引きあげつ。乗りたる馬、いとかしこしとも見えざりつれども、いみじき逸物にてありければ、い くばくも延ばさずして捕へたる所に、この五位走らせて行き着きたれば、狐を引きあげていふやうは、「わ狐、今宵のうちに利仁が家の敦賀にまかりていはむや うは、『にはかに客人(まらうど)を具し奉りて下るなり。明日の巳の時に高嶋辺にをのこども迎へに、馬に鞍置きて二疋具してまうで来』といへ。もしいはぬ ものならば。わ狐、ただ試みよ。狐は変化ありものなれば、今日のうちに行き着きていへ」とて放てば、「荒涼(くわうりやう)の使ひかな」といふ。「よし御 覧ぜよ。まからではよにあらじ」といふに、早く狐、見返し見返しして前に走り行く。「よくまかりめり」といふにあはせて走り先だちて失せぬ。
適当訳者の呟き
第一巻最後のお話。芥川龍之介「芋粥」の元ネタらしいです。
藤原利仁:
平安時代中期の武将。
延喜15年(915年)に、下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧するなど、平安時代の代表的な武人として伝説化され多くの説話が残された、らしいですよ。
後半で補足します。
とりばみ:
大饗(たいきょう)の料理の残りを庭上に投げ、下衆(げす)に与えること。また、それを食べる者
――と出ました。
昔はそんなことをやっていたのですね。
青鈍:
染め色の名。青みがかった薄墨色――と出ました。
この色です。
[11回]
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