(最初から)
やがて、人々が見ているうちに、校倉は、
河内国の、例の法師が仏事を行うところへ飛んで行き、
お堂の傍らへ、どうと落下した。
何ということだと人々は驚き呆れたが、そのままにしておくわけにも行かないから、
蔵の持主が、法師の前へ出て、訴えるには、
「こんな、驚くべきことがあったのでございます。
いつも鉢がやって来るので、何かしらお入れしておりましたが、
今日に限って、ほかのことに取り紛れてしまい、
鉢を、蔵の中へ置き忘れたまま錠をかってしまったのです。
すると突然、私の所有する倉が、ただ揺るぎに揺るいで、
こちらまで飛んできてしまったのです。どうか、倉をお返し下さい」
そう言ったところ、法師は、
「なるほど実に不思議なことであるが、飛んで来たものなれば、返すわけにも参らぬ。
ここには、あのような建物も無いため、いろいろ物を収めるのにちょうど良い。
が、中に入っているものは、そのまま持って帰るが良い」
と言ったものだから、
「いったいどうして持ち出せましょう。一千石は中に積んでございます」
と訴えれば、
「たやすいこと。確かにわしが運んで取らせよう」
と、例の鉢に一俵を載せて飛ばせば、
雁が列をつくるように、残りの俵があとに続いて行くのである。
群雀などのように、米俵が次々と飛んでついて行くから、
驚くやら尊いやらで、倉の持主は、
「し、しばしお待ち下さい。すべてでなくとも結構でございます。
米の二三百石は、どうぞそのまま、お留めになってください」
といったが、法師は、
「おかしなことを。それだけの米をここに置いて、わしはどうしたら良いのだ」
「では御入用のぶんだけでも」
そう言ったが、別に入用の分も無いので、持主の家へみな飛ばしてやったのであった。
さて、このようにして、法師は尊い行いを続けて日々を送っていたが、
折しも都では、延喜の帝・醍醐天皇が重い病にかかられていた。
さまざまな祈祷、修法、読経あらゆる手を尽くしてみたものの、
一向に良くなられることはない。
そこである人が申し上げるには、
「河内国信貴山のふもとに、
長年仏事に明け暮れて、里へ出ることさえしない聖がいらっしゃいます。
たいへんに尊くあられ、すでにその証しとして鉢を飛ばし、お堂に居ながらにして、
普通ではとても出来ないことをしていらっしゃいます。
彼を招き、ご祈祷させたなら、帝の御患いも治るのではございませんか」
と提案すると、
「それならば」
と、蔵人を使いにして、例の法師をお呼びになった。
(つづき)
原文
信濃国の聖の事(つづき)
さて見れば、やうやう飛びて、河内国に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍に、どうと落ちぬ。
いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日紛はしく候ひつる程に、倉にうち置きて忘れて、取りも出さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候。この倉返し給り候はん」と申す時に、「まことに怪しき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」とのたまへば、主のいふやう、「いかにしてか、 たちまちに運び取り返さん。千石積みて候なり」といへば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛すれば、雁などの続きたるやうに、残の俵ども続きたる。群雀などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさ ましく貴ければ、主のいふやう、「暫し、皆な遣はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」といへば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何にかはせん」といへば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」と、主の家にたしかにみな落ち居にけり。
かやうに貴く行ひて過す程に、その比延喜の御門、重く煩はせ給ひて、さまざまの御祈ども、御修法、御読経など、よろづにせらるれど、更に怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴と申す所に、この年来行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候なり。それこそいみじく貴く験ありて、鉢を飛し、さて居ながら、よろづあり難き事をし候なれ。それを召して、祈らせさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人を御使にて、召しに遣はす。
適当訳者の呟き
米俵が飛んで行く描写なんて、近代小説的だと思いました。
あと、倉の持ち主の言い訳が良い感じですね。
延喜の御門:
醍醐天皇。天皇親政、平安中期の立派な天皇様として有名ですが、意外と、菅原道真を太宰府に左遷したりもされました。
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