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派遣された蔵人が、お堂に行ってみれば、
なるほど、法師の様はまことにめでたく、尊く見えた。
そして、これこれの宣旨によってお召しですので、至急お越し下さるように、
と伝えたところ、法師は、
「何故にわしが参る必要がある」
と言って、いっこうに動く気配も見せない。
蔵人は重ねて、
「帝の御病が大事になっております。ご祈祷をされますよう」
と言い、
「仮にここでご祈祷なさり、それで帝の御病が癒えたとしても、
それでは聖の効験だとは知れませんよ」
と説いてみたが、
「別に何者の祈りの効き目だということが知れずとも、
帝の御心地が良くなられれば、それでよろしいではないか」
と聖は答えるばかり。
「それにしても、何とか、数多くの祈りの中に、
これこそが聖のご祈祷の効験である、と拝見できればと思いますが」
と、蔵人がなおも食い下がると、
「ならば我が祈りによって、剣の護法を遣わそう。
それが自然と帝の御夢か、白昼の幻としてご覧いただけたなら、
そのようにお知らせせよ。剣を手にして、衣を着た護法童子だ。
いずれにしても、わしは都には出ぬ」
と言うので、蔵人は帰り、そのように報告した。
さて、三日後の昼つかた。
ふと帝がうとうとと、まどろまれるというほどでもないような時、
きらきらと光る物が見えたので、何だ――とご覧になり、
あれが、霊の法師が申していた剣の護法童子ではないかと思し召した途端、
御心地がさわやかになり、すこしも心苦しいこともなくなり、快癒された。
人々はみな喜び、また聖を大いに尊び、褒めそやした。
帝も限りなくありがたいと思し召しになり、人を使わして、
「僧正や僧都の位につき、また、このお寺へ荘園など寄進しよう」
と仰せになる。
聖は思し召しを承ったものの、
「僧都、僧正などは、さらに我が就くべきところではありません。
またこのようなところへ荘園など寄せられれば、別当だ、何だと出てきて、
難儀なことばかりで、罪をつくることとなりましょう。
ただこのままにして過させてくださいますように」
と断ってしまった。
ところで、この聖には一人の姉がいた。
もともと、受戒だけのために上京した弟なのに、
長年戻ってこないのはどういうことだと、不安な思いで、
ともかく尋ねるだけ尋ねてみようと、奈良へやって来て、
東大寺や山階寺のあたりを、
「もうれん小院という人はいますか」
と尋ねるが、
「知らない」
と言う人ばかりで、知っていると答える人はいなかった。
尋ね尽くして、どうするべきか、姉はせめて弟の安否だけでも聞いて帰りたいと、
その夜、東大寺大仏の御前に、
「弟、もうれんの居所を、どうか教えて下さい」
と夜通し申し上げて、ふとまどろみ見た夢に、大仏が仰るには、
「尋ねる僧の居所は、ここから未申の方角の、山の中にある。
山の、雲たなびくところを尋ねてみよ」
そう聞いたところで目が冷めた。
時間は暁暗。
早く夜が明けよと思いながら、未申・南西を見れば、
山がかすかにあって、紫の雲がたなびいていた。
姉はうれしく思い、そちらへと向って行けば、まことにお堂がある。
人の気配がするところへ行き、
「もうれん小院はおりますか」
と言えば、
「誰ぞ」
と出てきたのは、当の聖であった。
聖は、信濃の実姉を見て、
「これはいかにして尋ねられましたか。思いもかけぬ訪れです」
と言えば、姉は、ここまでのことをいろいろと語って、
「おまえがどんなに寒かろうと思い、着せてやろうと、これを持ってきました」
と、差し出したのは腹帯という着物で、
しかも普通のものではなく、太い糸で厚々と縫い、
細かく織り上げて、丈夫にしてあるものであったから、聖は喜んで身につけた。
聖は、もとは一重の紙衣を着ただけで、たいそう寒かったけれど、
その下に姉の持って来た腹帯を身につければ、あたたかで具合が良かった。
それを身につけてさらに数年、仏事を続け、
姉の尼君も、もとの国へは帰ることなく、そこに留まって仏事を行うこととなった。
やがて、聖はこの腹帯ばかりを着て、仏事を行っていたから、
帯はとうとう破れだらけになってしまったが、それでも身につけていた。
例の鉢に運ばれてきた倉は「飛び倉」と呼ばれていたようだが、
腹帯の破れは、その飛び倉の中へ納められたという。
ちなみに破れの、露ほどのかけらを、さまざまな機会を通じて手に入れた人は、
それを、お守りにしたという。
さらに時代を経て、倉は朽ち破れてしまったが、
人々は倉の木の端を、わずか露ばかりでも手に入れて、お守りにした。
さらには、その木で毘沙門像を造り、奉持すれば必ず徳がつくというので、
話を聞いた人は、あらゆる縁を尋ねて、倉の木のかけらを買い取るのだという。
その地は信貴山といい、何とも言えず仏の加護あるところだとして、
人々は明け暮れ詣でている。
そしてその地の毘沙門は、もうれん聖が見いだしたものなのである。
原文
信濃国の聖の事(つづき)
行きて見るに、聖(ひじり)のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり、とくとく参るべき由いへば、聖、「何しに召すぞ」とて、更々動きげもなければ、「かうかう、御悩大事におはします。祈り参らせ候はん」といふ。「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」といへば、「それが誰が験といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」といへば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈の中にもその験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法を参らせん。おのづから御夢にも、幻にも御覧ぜば、さたは知らせ給へ。剣を編みつつ、衣に着たる護法なり。我は更に京へはえ出でじ」といへば、勅使帰り参りて、かうかうと申す程に、三日といふ昼つかた、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて、聖を貴がりめであひたり。
御門も限なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正僧都にやなるべき。またもの寺に、庄などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正更に候まじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候。ただかくて候はん」とてやみにけり。
かかる程に、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ。かうまで年比見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院(こゐん)といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみいひて、知りたるとといふ人なし。尋ね侘びて、いかにせん、これが行末聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「このまうれんが在所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚めたれば、暁方になりにけり。いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明方になりぬ。未申の方を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「まうれん小院やいまする」といへば、「誰そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」といへば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持て来たり。悦びて、取りて着たり。もとは紙絹一重をぞ着たりける。さていと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年比行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らずとまり居て、そこに行ひてぞありける。
さて多くの年比、このふくたいをのみ着て行ひてれば、果てには破れ破れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉(とびくら)とぞいひける。その倉にぞ、ふくたいの破れなどは納めて、まだあんなり。その破れの端を露ばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしけり。その倉も朽ち破れて、いまだあんなり。その木の端を露ばかり得たる人は、守りにし、毘沙門を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。さて信貴とて、えもいはず験ある所にて、今に人々明暮参る。この毘沙門は、まうれん聖の行ひ出し奉りけるとか。
適当訳者の呟き
長いー。
立派な宣伝ですね。信貴山の僧侶が書いた話だと思いました。この時代に、「飛び倉のかけら! お守りに最適!」「たいへん貴重な聖人の布でっせ。銭百貫!」とか、商売してたのかなあと想像。
もうれん小院:
信貴山のウェブページによれば、命蓮(みょうれん)。「中興開山命蓮上人」と書いてありまして、この命蓮さんが、醍醐天皇を平癒させたことから、信貴山の我孫子寺には、「朝護」が頭に付くようになりました。
護法童子:
剣を持って、仏法や仏教徒を守ります。でも高徳の僧、山伏には逆らうことができず、
命令によって舟を転覆させたりもします。
ふくたい:
腹帯、としてますが、本当はよく分りません。
紙衣の下に着るとありますし、「信貴山縁起絵巻」の絵を見て、「腹帯」だと思いました。腹巻き。
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