これも今は昔、鳥羽院が天皇位にあられた時のこと。
白河院の武者所では、
宮道式成(みやじののりなり)、源満(みなもとのみつる)、則員(のりかず)の三人が、
ことに弓の名人であった。
あるとき、鳥羽院がそのことをお聞きになり、
滝口に、三人とも呼ばれることになった。
そうして、試させると、全員、一度も矢を外すことはなかったから、
三人を饗応し、楽しませた。
そのあとで三人に、三尺五寸、つまり1メートルほどの的を賜り、
「この的の二番目の黒丸を射貫いて、持って参れ」
と仰せがあった。
仰せがあったのは、巳の時だから朝の10時ごろで、
その後三人は、早々と未の時、昼2時ごろには射貫いて持って来た。
しかも三人で三手、つまり六本を突き立てる精密さ。
「矢を取りに行けば、行って戻るのを待つ時間がかかる」
と、三人とも我先に矢を取り、
立ち替わり、立ち替わり射るうち、
未の時も終らぬうちに、二番目の黒丸をぐるりと射抜いて、持って来たのであった。
「まさに、楚国の名人、養由のようだ」
と、そのころの人は誉め騒いだという。
原文
式成満則員等三人滝口弓芸(ゆげい)の事
これも今は昔、鳥羽院位の御時、白河院の武者所の中に、宮道式成、源満、則員、殊に的弓の上手なり。その時聞えありて、鳥羽院位の御時の滝口に、三人ながら召されぬ。試みあるに、大方一度もはづさず。これをもてなし興ぜさせ給ふ。ある時三尺五寸の的を賜びて、「これが第二の黒み、射落して持て参られよ」と仰あり。己の時に賜りて、未の時に射落して参れり。いたつき三人の中に三手なり。矢とりて、矢取の帰らんを持たば、程経ぬべしとて、残の輩、我と矢を走り立ちて、取り取りして、立ちかはり立ちかはり射る程に、未の時の半らばかりに、第にの黒みを射めぐらして、射落して持て参れりけり。「これすでに養由がごとし」と時の人ほめののしりけるとかや。
適当訳者の呟き
大した話じゃないかも知れませんが、七巻終了です!
宮道式成:
みやじののりなり。詳しいことは分りませんが、宮道氏は、物部氏の末で、一休さんの「新衛門さん」で有名な蜷川氏も、この宮道さんの流れなんだそうです。
源満:
みなもとのみつる。ちょっと分りません。
則員:
のりかず。不明。この人なんて、名字も分りません。
滝口:
宮中・清涼殿の御溝水(みかわみず=堀の水)側。「滝口の武者」というのがここで屋敷を警護していました。ちょっとした滝というか、水の落差があったのでしょうね。
的の黒み:
的は、三重丸くらいのものだったはずです。公式にはこの三重丸を「霞的」というようで、白地に黒丸ひとつの的は、「星的」といいます。
養由:
ようゆう。養由基。春秋時代の弓の名人。
楚王に仕えて、強い弓勢は甲冑7枚を貫き、かつ正確に蜻蛉の羽根を射ることができ、さらには百歩離れて柳の葉を射て百発百中だったそうです。
王様が生意気な白猿を飼っていて、王様の放った矢でさえ手で摑んでしまうようなすばしこさだったので、養由に射よと命じたところ、猿が泣いて謝ったとか。
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