(最初から)
しばらく行くうちに、青侍は、
これから長谷寺へ詣でようという貴婦人の牛車と行き会った。
と、簾を掲げて前を見ていた美しい若君が、
「あの男の持っているものは何じゃ? かれに頼み、われにくれよ」
と、馬に乗って同道する侍臣に言った。
それで侍が、青侍に、
「その方の手に持つ物、若君がご所望するによって、進呈せよ」
と言うので、青侍は、
「仏様より賜ったものでございますが、そのような仰せですので、差し上げます」
と言って手渡した。
すると、同乗していた婦人が、
「感心な者です。若君の所望されるものをあっさり差し出すとは」
と言って大きな蜜柑を三つ、
「これ、喉が渇くでしょう。お食べなさい」
と、たいへんに香り高い陸奥和紙に包み、
侍を通じて、青侍へ賜ったのだった。
「わら一筋が、大きな蜜柑三つになったぞ」
と思い、青侍がその蜜柑を木の枝に結い付け、
さらに肩に担いで行くうちに、
「ははあ、高貴な人が、お忍びでご参詣のようだ」
と、大勢の侍を引き連れ、徒歩でこちらへ来る貴婦人が見えた。
だが貴婦人は歩き疲れて、立ち尽くしているようなありさまで、
「喉がかわきました。水を飲ませなさい」
と、消え入るように言うが、供の連中は途惑ってしまい、
「近くに水はあるか」
と走り騒いで水を探したが、見つからない。
「これはどうしたものか。荷馬には積んであったか」
と尋ねているが、馬は遙かに遅れているようで、後ろに見えもしない。
女主人は、ほとんど死にそうなありさまに見えたため、侍臣は大騒ぎである。
これを、青侍は遠くから見つめて、
「喉がかわいて、あんなに大騒ぎになるのか」
と見ていると、一人がそっと歩み寄って、
「ここにいる男であれば、水のある場所を知っているだろう
――この近くに、清い水の出るところはあるか」
と尋ねるから、青侍は、
「この四五町近辺には、清い水のあるところはありません。どうかしたのですか」
青侍が問いかければ、
「歩き疲れた主人が、御のどがかわいたと仰って、
水をお求めなのだが、水が無く、どこにあるのかと尋ねた次第」
「それは難儀なことです。
水のある場所は遠く、汲みに参ろうとすれば、
時間がかかりますので、これはいかがでしょう」
と、和紙に包んである蜜柑を三つとも渡したところ、
大喜びして、女主人に食べさせた。
それで婦人はようやく目を開けて、
「これは、どうしたというのですか」
と聞くので、侍臣が、
「御のどが乾き、『水を飲ませよ』と仰ったままお倒れになったので、
懸命に水を探しましたが、清い水はありません。
あちらにいる男に聞いたところ、彼の好意で、こちらの蜜柑を三つ、
献上しようとのことだったので、今、召し上がっていただいた次第です」
と答えた。
女房は、
「わたしは喉がかわき、このまま息絶えようともしていました。
『水を飲ませよ』と言ったところまでは覚えていますが、
その後のことはさらに記憶しておりませぬ。
この蜜柑が無ければ、この路傍に死んでいたでしょう。
うれしい男です――かれはまだいますか」
「あちらにおります」
「その男に、しばしこちらへ、と伝えなさい。
長谷寺へ参ればありがたいことがあったにしても、
その途中で死んでしまっては参詣の甲斐も無かった。
男が喜ぶようなことをしましょう――でもこんな旅の途中ではどうすれば良いのか。
とにかく食べ物はありますか。彼に食べさせてやりなさい」
と命じた。
それを受けて、侍臣が、
「その方、しばしこちらへ参れ。間もなく荷駄も追いつくから、何か食うて参れ」
というので、
「かしこまりました」
と待っているうちに、荷物を積んだ馬がやって来る。
「それにしても、なぜこんなに遅れて参ったのだ。
荷馬は常に先行する方が良いのだ。
緊急事態も起こりうるのに、このように遅れて参って良いものか」
と小言を口にしつつ、そこへ幕を引き、畳などを敷くと、
「水は遠いが、お疲れのことでもあるから、食べ物は、こちらにて進ぜる」
と、人夫を水汲みに行かせると、
弁当を広げて、青侍へ見栄えの良いようにして、食べさせたのだった。
青侍が、
「なるほど、この分では、先ほど渡した蜜柑も何かに替るであろう。
観音のお計らいくだされたことであるから、よもやこのままでは終るまい」
と思っていたところ、
婦人の方から、白い布を三匹取り出して、
「これをあの男へ与えましょう。
先ほどの蜜柑の喜びは、言い尽くすことができないほどですが、
今は旅の途中なれば、かれを喜ばせるほどのことは出来ません。
ですからこれはただ、わたくしのお礼の一端を見せるばかりです。
――京の住所は、そこそこです。折があれば必ず参るように。
この蜜柑の喜びを、必ず返しますので」
と、布を三匹与えたので、青侍は喜んでこれを受け取った。
「藁一筋が、布三匹になったぞ」
と、布を脇に挟み、さらに道を行く内に、やがてこの日は暮れた。
(つづき)
原文
長谷寺参籠男、預利生事(つづき)
長谷にまいりける女車の、前の簾をうちかづきてゐたる児(ちご)の、いとうつくしげなるが、「あの男の持ちたる物はなにぞ。かれ乞ひて、我に賜べ」と、馬に乗てともにある侍にいひければ、その侍、「その持たる物、若公(わかぎみ)の召すに参らせよ」といひければ、「仏の賜びたる物に候へど、かく仰事候へば、参らせて候はん」とて、とらせたりけば、「此男、いとあはれなる男也。若公の召す物を、やすく参らせたる事」といひて、大柑子を、「これ、喉かわくらん、食べよ」とて、三、いとかうばしき陸奥国紙に包てとらせたりければ、侍、とりつたへてとらす。
「藁一筋が、大柑子三(みつ)になりぬる事」と思て、木の枝にゆひ付て、肩にうちてかけて行ほどに、「ゆゑある人の忍てまいるよ」と見えて、侍などあまた具して、かちよりまいる女房の、歩み困じて、たゞたりにたりゐたるが、「喉のかはけば、水飲ませよ」とて、消え入やうにすれば、ともの人、手まどひをして、「近く水やある」と走さはぎもとむれど、水もなし。「こはいかゞせんずる。御旅籠(はたご)馬にや、もしある」と問へど、はるかにおくれたりとて見ず。ほとほとしきさまに見ゆれば、まことにさはぎまどひて、しあつかふを見て、「喉かはきてさはぐ人よ」と見ければ、やはら歩み寄りたるに、「こゝなる男こそ、水のあり所は知りたるらめ。此辺近く、水の清き所やある」と問ければ、「此四五町がうちには清き水候はじ。いかなる事の候にか」と問ひければ、「歩み困ぜさせ給て、御喉のかはかせ給て、水ほしがらせ給に、水のなきが大事なれば、たづぬるぞ」といひければ、「不便に候御事かな。水の所は遠て、汲て参らば、程へ候なん。これはいかゞ」とて、つゝみたる柑子を、三ながらとらせたりければ、悦さはぎて食せたれば、それを食て、やうやう目を見あけて、「こは、いかなりつる事ぞ」といふ。「御喉かはかせ給て、「水飲ませよ」とおほせられつるまゝに、御殿籠り入らせ給つれば、水もとめ候つれども、清き水も候はざりつるに、こゝに候男の、思かけるに、その心を得て、この柑子を三、奉りたりつれば、参らせたるなり」といふに、此女房、「我はさは、喉かはきて、絶入たりけるにこそ有けれ。「水飲ませよ」といひつる斗はおぼゆれど、其後の事は露おぼえず。此柑子えざらましかば、此野中にて消え入なまし。うれしかりける男かな。此男、いまだあるか」と問へば、「かしこに候」と申。「その男、しばしあれといへ。いみじからん事ありとも、絶え入はてなば、かひなくてこそやみなまし。男のうれしと思ふばかりの事は、かゝる旅にては、いかゞせんずるぞ。食ひ物は持ちて来たるか。食はせてやれ」といへば、「あの男、しばし候へ。御旅籠馬など参りたらんに、物など食てまかれ」といへば、「うけ給ぬ」とて、ゐたるほどに、旅籠馬、皮籠馬など「など、かくはるかにをくれては参るぞ。御旅籠馬などは、つねにさきだつこそよけれ。とみの事などもあるに、かくをくるゝはよき事かは」などいひて、やがて幔引き、畳など敷きて、「水遠かんなれど、困ぜさせ給たれば、召し物は、こゝにて参らすべき也」とて、夫どもやりなどして、水汲ませ、食物しいだしたれば、此男に、清げにして、食はせたり。物を食ふ々、「ありつる柑子、なににかならんずらん。観音はからはせ給事なれば、よもむなしくてはやまじ」と思ゐたる程に、白くよき布を三匹取り出でて、「これ、あの男に取らせよ。此柑子の喜は、いひつくすべき方もなけれども、かゝる旅の道にては、うれしと思ふ斗の事はいかゞせん。これはたゞ、心ざしのはじめを、見する也。京のおはしまし所は、そこそこになん。必ず参れ。此柑子の喜をばせんずるぞ」といひて、布三匹取らせたれば、悦て布を取(と)りて、「藁筋(わらすぢ)一筋が、布三匹(むら)になりぬる事」と思て、腋(わき)にはさみてまかる程に其日は暮にけり。
適当訳者の呟き:
つづきます。貴人が直答せず、侍臣を通して、話をしたり、ものを授受するところが、時代を感じさせます。
柑子:
こうじ。ミカンの一種。今でも栽培されていますし、昔から栽培されています。
吉田兼好「徒然草」の一節として、「かなたの庭に、大きなる柑子の木の枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか」などと、学校の古文教科書に出てきて、中学生を古文嫌いにするやつですね。
陸奥国紙:
みちのくにかみ。単なる和紙、という以上に「高級な」和紙。
昔は東北でたくさん紙がつくられていました(年貢として取り立てるとき、運搬するのが楽だからという理由もあったはず)。
旅籠馬、皮籠馬:
はたごうま、かわごうま。旅籠というのは「旅館」のことではなく、本来、馬の干し草を入れた竹の籠だとか、旅行用の食物や日用品を入れた籠のことで、字義通りでした。これがやがて、宿屋そのもののことを指すようになった模様。
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