今は昔、播磨守為家という者がいて、
その抱え人の中に、取り立てて特長のない侍がいた。
あだ名を「佐多」といい、誰からも正式な名前では呼ばれず、
主人からも朋輩からも、ただ「佐多」と呼ばれていた。
それで、この佐多という男。
人目を引くほどの働きは無いかわりに、あるじに忠実に仕えていたから、
数年経つうちに、小さな郡の収納役に任じられた。
そして佐多は喜んでその郡へ赴くと、郡司のもとを訪れて、
するべき指示を済ませ、四五日して、また都へ戻って行った。
さて、佐多の訪れた郡司のもとには、
人に騙されて、京都より連れて来られた娘がいて、
郡司はこれを哀れがり、縫い物などをさせて養い置いていた。
それを聞きつけた佐多の従者が、
「郡司の家には、京の女で、容姿端麗、髪もさらりと長く、
たいへん美しい女がいるのですが、
郡司は隠し置いたまま、とうとう、
佐多どのに紹介することなく済ませてしまいましたね」
と語った。
このため佐多は、
「それはねたましい。
て言うか、おまえ、なぜ郡司の屋敷にいたときに言わないで、
こんなところへ来てから言うのだ。憎い奴め」
と言ったから、従者は慌てて、
「佐多どのがいらしたお部屋の、ついたて一枚を隔てただけの部屋に、
その女房がいたのです。
定めて、佐多どのもご承知のことと思ったのですが」
と言う。
「なるほど。いずれにしても、こうして家を出た以上は、もう当分、
行くことはないと思っていたが、いや、旦那様へ一旦、報告をしたら、
すぐにも郡司の屋敷へ戻り、その女房を愛でようぞ」
と答えた。
そうして二三日して、主人である為家のもとへ、
「為すべき仕事の途中で参りましたゆえ、また、お暇を頂戴します」
というと、
「仕事の途中で、何しに京へのぼったのだ。早く郡司のもとへ下るが良い」
と命ぜられたため、
佐多は喜んでふたたび下向した。
(つづく)
原文
播磨守爲家侍事
今は昔、播磨の守爲家といふ人あり。それが内に、させることもなき侍あり。あざなさたとなんいひけるを、例の名をば呼ばずして、主も、傍輩も、ただ、「さた」とのみ呼びける。さしたることはなけれども、まめにつかはれて、とし比になりにければ、あやしの郡の収納(すなう)などせさせければ、喜てその郡に行て、郡司のもとにたどりにけり。なすべき物の沙汰して、四五日ばかりありてのぼりぬ。
此郡司がもとに、京よりうかれて、人にすかされてきたりける女房のありけるを、いとほしがりて養置きて、物ぬはせなど使ひければ、さやうの事なども心得てしければ、あはれなるものに思ひて置きたりけるを、此さたに、従者がいふやう、「郡司が家に、京のめなどいふものの、かたちよく、髪ながきがさぶらふを、かくし据ゑて、殿にもしらせ奉らで置きてさぶらふぞ」と、かたりければ、「ねたきことかな。わ男、かしこにありしときは言はで、こゝにてかく言ふは、にくきことなり」といひければ、「そのおはしまししかたはらに、きりかけの侍しをへだてて、それがあなたにさぶらひしかば、知らせ給たるらんとこそ、思ひ給へしか」といへば、「このたびはしばし行かじと思つるを、いとま申て、とく行て、其女房かなしうせん」といひけり。さて二三日ばかりありて、爲家に、「沙汰すべき事どものさびらひしを、沙汰しさして参りて候しなり。いとま給りてまからん」と云ければ、「ことを沙汰しさして、なにせんにのぼりけるぞ。とく行けかし」といひければ、喜て下けり。
適当訳者の呟き
短いですが、後半、わけが分らなくなるので、ここで切りますー。
播磨守為家
1077年・治承元年に、播磨守に重任された、高階為家のことだと思われます。
白河天皇の庇護下で播磨守のほか、各地の受領を歴任、金をしこたま貯めた人です……といっても、この為家さんは、物語にはほとんど関係ないです。
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