これも今は昔。
法性寺殿の御時に、民部大輔の篤昌という者がいた。
さて、蔵人所の下役に義助とかいう者がいて、
ある時、この篤昌に、何かの用務が言いつけられた際、義助自身は、
「わしはそのような仕事をすべき者ではござらぬゆえ」
といって出仕しなかった。
このため所司や舎人を大勢送って、激しく呼び立てると、
ようやく出仕してきたが、篤昌はおさまらない。
「言いたいことがある」
とばかりに、目の前へ呼びつけ、
尋常でないほどの腹立ちを見せながら、
「おぬしの申した、そのような仕事が、このわしに与えられたのはどういうわけだ。
おぬし、この篤昌を何者だと思っておる。承ろうではないか」
しきりに言うが、義助はしばらく黙り込んだままなので、
篤昌はますます怒って、
「さあ、申してみよ。まずこの篤昌をどう思っておるのか、聞かせてもらおうか!」
と、きつく責め立てると、
「別に何とも思ってはござらぬ。
ただ、民部大輔・五位の、赤っ鼻だと思うばかりでござる」
と言ったため、篤昌は、
「おう」
と言って、逃げてしまった。
それからまたあるとき。
義助の前を、忠恒という随身が、風変わりな恰好で通りかかったところ、
「わりある随身の姿かな」
と義助が呟いた。
忠恒は耳ざとく聞きつけ、義助の前へ戻ると、
「『わりなし』は非常に優れているという意味だが、『わりある』とはどういう意味か」
と咎め立てた。
すると義助は、
「わしは別に、人のわりあり、なしも知らぬ。
だが最前、とある検非違使の下役が通りかかった際、ほかの連中が、
『わりなしの恰好だなあ』
と言い合せていたのを思いだし、おまえさんとは少しも似ていない恰好であったゆえ、
おまえさんの方は『わりがある』と言うのであろうと思い、そのように申しただけだ」
と堂々と言い放ったため、忠恒も、
「をう」
と言って逃げてしまった。
というわけで、この義助は、荒所司と呼ばれるようになったという。
原文
篤昌忠恒等の事
これも今は昔、民部大輔篤昌といふ者ありけるを、法性寺殿の御時、蔵人所の所司に、義助(よしすけ)とかやいふ者ありけり。件者、篤昌を役に催しけるを、「我はかやうのやくはすべき者にもあらず」とて、参らざりけるを、所司に舎人をあまたつけて、苛法をして催しければ参りにける。さてまづこの所司に、「物申さん」と呼びければ、出であひけるに、この世ならず腹立ちて、「かやうの役に催し給ふはいかなる事ぞ。篤昌(あつまさ)をばいかなる者と知り給ひたるぞ。承らん」と、しきりに責めけれど、暫しは物もいはで居たりけるを叱りて、「のたまへ。まづ篤昌がありやう承らん」といたう責めければ、「別の事候はず。民部大輔五位の鼻赤きにこそ知り申したれ」といひたりければ、「おう」といひて、逃げにけり。
またこの所司が居たりける前を、忠恒といふ随身、異様(ことやう)にて練り通りけるを見て、「わりある随身の姿かな」と忍びやかにいひけるを、耳とく聞きて、随身、所司が前に立ちかへりて、「わりあるとは、いかにのたまふ事ぞ」と咎めければ、「我は、人のわりありなしもえ知らぬに、只今武正府生(たけまさふしょう)の通られつるを、この人々、『わりなき者の様体(やうだい)かな』と言ひ合せつるに、少しも似給はねば、さてはもし、わりのおはするかと思ひて、申したりつるなり」といひたりければ、忠恒、「をう」といひて逃げにけり。この所司をば荒所司とぞつけたりけるとか。
適当訳者の呟き:
微妙に悪口を言われた方が逃げる理由が謎です。迫力に怖じた感じでしょうか。
ていうか、タイトルが「義助の事」じゃないのが不思議です。
法性寺殿:
藤原忠通のこと。保元の乱で対立した一方の中心人物です。
平家が台頭してくる頃の人なので、藤原道長からは100年以上あとの話です。
民部大輔の篤昌:
不明。民部大輔は、戸籍や山川田野などを担当します。正五位下相当官ですが、蔵人所の所司よりは上の身分でしょうね。
蔵人所の所司:
蔵人(くろうど)というのは、令外官で、天皇さまの秘書的立場ですが、そこの「所司」というのは、ただの役人です。詳しいことは分りませんが、少なくとも民部大輔さんよりは格下です。
随身の忠恒:
ずいじん、は貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人。民部大輔さんほどではないでしょうが、派手な恰好で貴族のおそばにあるのですから、こちらもエリートに近い存在だったのだと思います。
わりあし、わりなし:
「わりなし」というのが、古文単語で、非常にすぐれている、すばらしい――の意味ですが、「わりあり」という言葉は存在しません。
でも、わり「ない」方が素晴らしいのだから、わり「ある」と言われたら腹が立ちます。
武正府生:
たけまさふしょう。府生というのは、検非違使、六衛府の下役のことだそうです。
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