今は昔。
長門の前司という人には娘が二人あり、姉には定まった夫があった。
妹の方は、若いときに宮中へお仕えしていたが、
その後は実家に戻り、定まった夫もなく、時々通ってくる男がある程度だった。
さて姉妹の家は、高辻室町の辺りにあり、父母が亡くなってからは、
屋敷の奥へ姉夫婦が住み、
妹は南の表の、西側の妻戸口にいて、そこで人に逢い、また物語りなどをしていた。
その後、妹は27-8歳のとき、ひどい病を患って亡くなった。
そして遺骸は、家の奥では狭苦しいから、妻戸口に横たえておき、
やがて葬送になったところで、姉たちがこれを鳥部野へ運ぶことになった。
そして鳥部野へ着き、
型どおりの儀式をするため、車から棺を降ろしたところ、
棺が軽々としていて、蓋もすこし開いている。
これはおかしいと、開けてみれば遺体が無くなっている。
「途中で落とすはずもなし、どうしたことか」
と怪しんだが、無いものは無いので、
「いや、しかし、遺体が消えるなんておかしいぞ」
と、みんな急いで戻り、
「途中で、落ちたのかもしれない」
と思って探したが、やっぱり見つからず、結局みんな家へ戻ることになった。
そして、
「いや……まさか」
と、人々が見れば、故人はいつもの妻戸口へもとの通り、横たわっているのである。
まことにおぞましく、すごい事態だぞと、親類一同が集まり、
「どうしたら良いのだ」
と声高に話し合っているうちに、夜も更けてきたから、
「どうも、こうも、無い」
と、その晩はそのままに、また夜が明けてから、もう一度、棺に体を納めて、
今度はしっかりと蓋をしめるなどしておいた。
そしてこれが再び夜になればどうなることか……と不安がるうちに、
夕方、見てみると、棺の蓋が細く開いている。
すさまじい恐ろしさに、親類一同、困惑しきりだったが、
「ともかく近くへ行って、しかと確かめねば」
と近寄れば、やはり遺体は棺から出て、例の如く妻戸口へ伏しているのだった。
「なんという、恐ろしき執念か」
と、みたび棺へ押し込もうとするが、今度は少しも動こうとせず、
大地に根を張る大木を、引き揺すろうとするような手応え。
こうなると、もはやどうすることも出来ず、
「それほどまでに、ここへ居続けたいということか。
ならば、ここへ置くしかない……とはいえ、このままというわけにも行かぬ」
と、妻戸口の床板を剥がし、遺体を床下へ下ろそうと動かしたところ、
まことに軽々としていたから、やはりそうするしかないと決まり、
妻戸口の一間の床板を取り除き、妹を土に埋めて、
高々とした塚を築いたのだった。
残った家の人間は、さすがに住み心地が悪く、やがて全員、他へ移って行った。
そして寝殿造りの屋敷も、年月とともに朽ち果てた。
その後もどういうわけか、塚の近くには下人どもも近づかず、
障りがあると言い伝えられて、ただ塚が一つだけ残されたという。
今でも高辻より北、室町の西側の、6-7間の一隅は、
小屋掛けさえ無くて、塚一つが高々と残るだけである。
やがて誰の仕業か、塚の上にお社がひとつ建って、今もそこにあるということである。
原文
長門前司女さうそうの時本所にかへる事
今は昔、長門前司といひける人の、女(むすめ)二人(ふたり)ありけるが、姉は人の妻にてありける。妹はいと若くて宮仕(みやづか)へぞしけるが、後(のち)には家にゐたりけり。わざとありつきたる男となくて、ただ時々通ふ人などぞありける。高辻室町(たかつじむろまち)わたりにこぞ家はありける。父母もなくなりて、奥の方(かた)には姉ぞゐたりける。南の表(おもて)の、西の方なる妻戸口にぞ常々人に逢(あ)ひ、物などいふ所なりける。
廿七八ばかりなりける年、いみじく煩(わずら)ひて失(う)せにけり。奥は所狭(ところせ)しとて、その妻戸口にぞやがて臥(ふ)したりける。さてあるべき事ならねば、姉などしたてて鳥部野(とりべの)へ率(ゐ)て往(い)ぬ。さて例の作法(さほふ)にとかくせんとて、車より取りおろす。櫃(ひつ)かろがろとして、蓋(ふた)いささかあきたり。あやしくて、あけて見るに、いかにもいかにも露(つゆ)物なかりけり。「道などにて落ちなどすべき事にもあらぬに、いかなる事にか」と心得ず、あさまし。すべき方(かた)もなくて、「さりとてあらんやは」とて、人々走り帰りて、「道におのづからや」と見れども、あるべきならねば、家へ帰りぬ。
「もしや」と見れば、この妻戸口に、もとのやうにてうち臥したり。いとあさましくも恐ろしくて、親しき人々集りて、「いかがすべき」と言ひ合せ騒ぐ程に、夜もいたく更(ふ)けぬれば、「いかがせん」とて、夜明けてまた櫃に入れて、この度(たび)はよくまことにしたためて、夜(よ)さりいかにもなど思ひてある程に、夕つかたに見る程に、この櫃の蓋細めにあきたりけり。いみじく恐ろしく、ずちなけれど、親しき人々、「近くてよく見ん」とて寄りて見れば、棺(ひつぎ)より出でて、また妻戸口に臥したり。「いとどあさましきわざかな」とて、またかき入れんとて万(よろづ)にすれど、さらにさらに揺(ゆ)るがず。土より生(お)ひたる大木などを引き揺るがさんやうなれば、すべき方(かた)なくて、「ただここにあらんと思(おぼ)すか。さらばここにも置き奉らん。かくてはいと見苦しかりなん」とて、妻戸口の板敷(いたじき)をこぼちて、そこに下(おろ)さんとしければ、いと軽(かろ)やかに下(おろ)されたれば、すべなくて、その妻戸口一間を板敷など取りのけこぼちて、そこに埋(うづ)みて高々と塚にてあり。家の人々もさてあひゐてあらん、物むつかしく覚えて、みな外(ほか)へ渡りにけり。さて年月経(へ)にければ、寝殿(しんでん)もになこぼれ失(う)せにけり。
いかなる事にか、この塚の傍(かたは)ら近くは下種(げす)などもえゐつかず。むつかしき事ありと言ひ伝へて、大方(おほかた)人もえゐつかねば、そこはただの塚一つぞある。高辻(たかつじ)よりは北、室町(むろまち)よりは西、高辻表に六七間ばかりが程は、小家(こいへ)もなくて、その塚一つぞ高々としてありける。いかにしたる事にか、塚の上に神の社(やしろ)をぞ一つ斎(いは)ひ据(す)ゑてあなる。この比(ごろ)も今にありとなん。
適当訳者の呟き
妹の言葉を語らないだけに、凄さが出てますね。。。
長門前司:
不明です。
高辻表の社・妹を埋めた塚:
今では、繁昌神社といって、商売繁盛の神様として有名みたいです。
ここに「班女塚」というのがあり、班女=はんじょ→はんじょう=繁昌と、語呂合わせ的に、商売繁盛の神様になった模様です。
(針才女→弁財天を祀っているため、というのも、有力な説みたいです)
とりあえず、ここに登場する妹さんの名前が「班」とか「針才女」だったのかもしれません。
妻戸口:
つまどぐち。寝殿造りなどの妻戸になっている出入り口。
妻戸:
寝殿造りで、殿舎の四隅に設けた両開きの板扉。
――というわけで、妻戸口、というのは、単に「部屋の出入口」くらいの意味ですね。
[2回]
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