これも今は昔。
多田満仲の郎等に、猛々しくて乱暴な奴がいた。
動物たちを射殺すのを得意としていて、
野に出ては鹿を狩り、山に入っては鳥を獲って、
わずかばかりの善根も施すことをしなかった。
さてこの郎等があるとき、狩りをしようと野へ出て、
馬を走らせ、鹿を追っていた。
矢をつがえ、弓を引いて駆ける途中にお寺がある。
そこで何気なく通り過ぎる際にふと見れば、
中にお地蔵様が立っていたから、この郎等、
左手で弓を取り、右手で笠を脱いで、ちょっとだけお地蔵様へ帰依する心を示して、
そしてまた鹿を追いかけて行ったのだった。
さてその後、幾ばくもしないうちに病にかかり、
何日も苦しみ煩った挙句、郎等の命が絶えた。
そして冥途へ行き、閻魔の庁へ呼びつけられると、
そこでは多くの罪人が、罪の軽重に応じて打たれ、きびしく罰せられているから、
この郎等、自分のこれまでに重ねた罪業を思うにつけ、
涙が落ちて仕方が無くなった。
そんな折、一人の僧侶が出てきた。
「汝を助けようと思う。早々に故郷へ帰り、罪を懺悔するが良い」
そんなことを言われるので、郎等はこの僧侶に向い、
「どなた様が、そのように仰るのですか」
僧侶は答えて、
「我は、汝が鹿を追う途中、行き過ぎた寺院にあった地蔵菩薩である。
汝の罪科は深く重いが、わずかでも我に帰依する心を起こしたことを功として、
我は今、汝を助けよう」
そう仰せになったと思うと、郎等は蘇った。
そして甦った後は、殺生をやめ、地蔵菩薩へお仕えしたという。
原文
多田しんぼち郎等事
これも今は昔、多田満仲のもとに猛く悪しき朗等ありけり。物の命を殺すをもて業(わざ)とす。野に出(い)で、山の入りて鹿を狩り鳥を取りて、いささか の善根(ぜんごん)する事なし。ある時出でて狩(かり)をする間、馬を馳(は)せて鹿追ふ。矢をはげ、弓を引きて、鹿に随(したが)ひて走らせて行く道に 寺ありけり。その前を過ぐる程に、きと見やりたれば、内に地蔵(ぢざう)立ち給へり。左の手をもちて弓を取り、右の手して笠(かさ)を脱ぎて、いささか帰 依(きえ)の心をいたして馳せ過ぎにけり。
その後(のち)いくばくの年を経ずして、病(やまひ)ちきて、日比(ひごろ)よく苦しみ煩(わづら)ひて、命絶えぬ。冥途(めいど)に行き向ひて、閻魔 (えんま)の庁(ちやう)に召されぬ。見れば、多くの罪人、罪の重軽に随ひて打ちせため、罪せらるる事いといみじ。我(わ)が一生の罪業(ざいごふ)を思 ひ続くるに、涙落ちてせん方(方)なし。
かかる程に、一人(ひとり)の僧出(い)で来(き)たりて、のたまはく、「汝(なんぢ)を助けんと思ふなり。早く故郷(ふるさと)に帰りて、罪を懺悔 (ざんげ)すべし」とのたまふ。僧に問ひ奉りて曰(いは)く、「これは誰(たれ)の人の、かくは仰(おほ)せらるるぞ」と。僧答え給はく、「我は汝(なん ぢ)鹿を追うて寺の前を過ぎしに、寺の中にありて汝に見えし地蔵菩薩(じざうぼさつ)なり。汝罪業(ざいごふ)深重(じんぢゆう)なりといへども、いささ か我に帰依(きえ)の心の起りし功によりて、吾(われ)いま汝を助けんとするなり」とのたまふと思干てよみがへりて後(のち)は、殺生(せっしやう)を長 く断ちて、地蔵菩薩につかうまつりけり。
適当訳者の呟き
え、よみがえったの??
多田しんぼち
源氏の人。多田満仲。ただみつなか。
晩年に出家したので、多田新発意(しんぼち)と呼ばれたらしいです。
出身地では有名なようで、兵庫県川西市の市民ホールは、「みつなかホール」です。
記録だと、平将門・藤原純友の乱の時代の人ですが(しんぼちさんの親が、二人に負けます)、
とりあえず安和の変で藤原千晴らを密告、藤原摂家と結びつきを深めて繁盛した人です。
地蔵菩薩:
お地蔵様は、お釈迦様が亡くなったあと、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、
みんなを救ってくださいます。 この話のように、ちょっと帰依するだけでも良いみたいなので、まことにありがたいですね。
[3回]
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