昔、唐土にとても大きな山があって、
山頂に、巨大な石の卒塔婆が立っていた。
山のふもとには、八十歳にもなる老婆が住んでいて、
日に一度、山の峰にある卒塔婆を見に行っていた。
大きな山で、麓から峰に登るのはまことにきつく、険しい道が延々と続いていたが、
雨が降ろうが雪が降ろうが、風が吹き、雷が鳴って、道が凍てつく日であろうとも、
また真夏の灼熱の日にも、老婆は一日も欠かさず、卒塔婆のもとまで登っていた。
こういう老婆のことを知らなかった、とある若者の一団が、
夏の盛りに峰に登って、大きな卒塔婆のもとで涼んでいると、
腰を二つ折りにしたような老婆が、汗だくだくで、杖にすがりながらと登ってきた。
信心のため卒塔婆の前でぬかずいたり、拝んだりするのかと思えば、
老婆は卒塔婆の周りを巡るだけで、さっさと帰ってしまう。
それを何日も続けている様子なので、
「今日またやって来たら、どういうわけか聞いてやろう」
と、みんなで言い交わして、待っていると、
やがていつも通り、へろへろになって老婆が登ってきた。
男たちは、
「婆さんは、一体なんのためにここへ来ているんだ。
我々は、熱くて辛い道を登ってきて、ここで涼んでから山を下りようと考えているが、
あんたは涼しむわけでもなく、別に何をするわけでもなく、
ただ卒塔婆を見ながら歩くだけだ。
毎日毎日やって来るが、おかしいだろう。どういうわけがあるのか、教えてくれ」
そう言うと、老婆は、
「なるほど、あなた方のような若い衆には、奇妙に見えるな。
だがわしは、物心がついてから七十年余り、
日ごとにこうして登ってきて、卒塔婆を見ておる」
「だから、それがおかしいと申すのだ。どうしてそんな真似をするのだ」
「わしの親は、百二十歳で死んだ。
祖父は百三十余りで、そのまた爺様は、二百余年も生きた。
その人たちの言い置かれたことによれば、
『この卒塔婆に血の付着したとき、この山は崩れ、深い深い海となる』
そのようにわしの父が申されたゆえ、
山の麓に住まう身だ、山崩れなどが起きれば死ぬることになる。
このため、もし血が付着しておればすぐに逃げ出さねばならぬと思い、
こうして毎日見に来ている次第だ」
若い衆は、何て馬鹿馬鹿しいことだと、老婆を嘲弄して、
「それはおそろしいこと。是非とも、山の崩れる時には我らにもお告げくださいな」
だが老婆は、自分が馬鹿にされているなどと思わず、
「あたり前のこと。わし一人が逃げ延びようとして、人に告げぬことがあろうか」
と言って、帰って行った。
さて、男どもは、
「もう今日は来ないだろうから、明日来たところを吃驚させて、
走って行くところを笑ってやろうじゃないか」
と、わざと血を出して卒塔婆にべったりと塗りつけると、
里へ下りてきて、
「ふもとの婆さんが毎日飽きもせずに峰へ上り、卒塔婆を見ているので、
どういうわけかと聞けば、しかじかのことだと言う。
明朝、これをびっくりさせるため卒塔婆へ血を塗りつけてきたから、
さぞ派手に山が崩れるだろうよ」
とゲラゲラ笑い、
里の者たちも、この馬鹿馬鹿しい企てに、こっそりと笑い合っていた。
そして翌日。
いつもどおり峰に登った老婆は、
卒塔婆にべったりと血がついているのを見るや、顔色を変えて、
転がらんばかりに里まで飛んで帰ってきて、
「里の衆、早く逃げて命を助けなされ。
すぐにも山が崩れて、深い深い海になりますぞ!」
と、里中へ告げて回り、
自分も家に帰ると、孫、子みんなに家財道具いっさいを持たせ、
自らも持てるだけ持って、慌てふためきつつ、別の里へ逃げていった。
これを見て、例の若い衆は手を叩いて大笑いしていたが、
そのうちに何だか辺りがざわざわと、騒がしいような気がしてきた。
風が吹いてくるか、雷が鳴るか……と見ていると、
空は曇り、にわかに恐ろしい色を帯びたと思うと、山がいきなり震え出して、
「これはどうしたことだ」
と、びっくりして、大騒ぎしている間に、山はただ崩れに崩れて行くので、
「あの婆さんの言ったことは本当だった!」
と逃げ出して、逃げ切れた者もあったようだが親の行方は分らず、
あるいは子供を失ったりした。
老婆の方は、家のものをいっさい失わず、
無事に逃げ延びて、別の村で平和に暮したという。
ともかく山はすべて崩れて深い海となった。
老婆を嘲笑していた連中はみんな死んでしまった。
まったく、とんでもない話だ。
原文
唐卒都婆血つく事
むかし、もろこしに大(おほき)なる山ありけり。其(その)山のいただきに、大なる卒都婆(そとば)一かてけり。その山のふもとの里に、年八十斗(ばか り)なる女の住みけるが、日に一度、其山の峯にある卒都婆(そとば)を、かならず見(み)けり。たかく大なる山なれば、ふもとより峯(みね)へのぼるほ ど、さがしく、はげしく、道遠かりけるを、雨ふり、雪ふり、風吹(ふき)、いかづちなり、しみ氷(こほり)たるにも、又あつ苦(くるし)き夏も、一日もか かず、かならずのぼりて、この卒都婆(そとば)を見(み)けり。
かくするを、人、え知(し)らざりけるに、わかき男ども、童部の、夏あつかりける比(ころ)、峯にのぼりて、卒都婆(そとば)の許(もと)に居つつ涼 (すず)みけるに、此(この)女、あせをのごひて、腰二重(ふたへ)なるものの、杖(つえ)にすがりて、卒都婆(そとば)のもとにきて、卒都婆(そとば) をめぐりければ、おがみ奉るかと見れば、卒都婆(そとば)をうちめぐりては、則(すなはち)帰々(かへりかへり)すること、一度にもあらず、あまたたび、 この涼(すず)む男どもに見(み)えにけり。「この女はなにの心ありて、かくは苦(くる)しきにするにか」と、あやしがりて、「けふ見えば、このこと問は ん」と、いひ合せけるほどに、つねのことなれば、此(この)女、はふはふのぼりけり。男ども、女にいふやう、「わ女は、なにの心によりて、我らが涼(す ず)みにくだるに、あつく、苦(くる)しく、大事(だいじ)なる道(みち)を涼(すず)まんと思ふによりて、のぼりくるだにこそあれ、涼(すず)むことも なし、べちにすることもなくて、卒都婆(そとば)を見めぐるを事にして、日々にのぼりおるること、あやしき女のわざなれ。此故(このゆゑ)しらせ給へ」と 云(いひ)ければ、この女「わかきぬしたちは、げに、あやしと思(おもひ)給(たまふ)らん。かくまうできて、此卒都婆(そとば)みることは、このごろの ことにしも侍らず。物の心知(し)りはじめてよりのち、この七十餘年、日ごとに、かくのぼりして、卒都婆(そとば)を見(み)奉るなり」といへば、「その ことの、あやしく侍(はべる)也。その故(ゆへ)をのたまへ」ととへば、「おのれが親は、百二十にしてなん失せ侍(はべり)にし。祖父(おほぢ)は百三十 ばかりにてぞ失(う)せ給へりし。それにまた父祖父(ちちおほぢ)などは二百餘年まで生(い)きて侍(はべり)ける。「その人々のいひ置(を)かれたりけ る」とて、「この卒都婆に血のつかん折(おり)になん、この山は崩(くづ)れて、ふかき海となるべき」(と)なん、父の申(まうし)置(を)かれしかば、 ふもとに侍る身なれば、山崩(くずれ)などは、うちおほはれて、死(しに)もぞすると思へば、もし血つかば、逃(にげ)てのかむとて、かく日ごとに見 (み)るなり」といへば、この聞(き)く男ども、をこがりあざりけて、「おそろしきことかな。崩(くづ)れんときには、告(つげ)給へ」など笑(わらひ) けるをも、我をあざりけていふとも心得ずして、「さらなり。いかでかは、われひとり逃(にげ)むと思(おもひ)て、告(つげ)申さざるべき」といひて、帰 (かへり)くだりにけり。
この男ども「此(この)女はけふはよも来(こ)じ。あす又来(き)てみんに、おどしてはしらせて、笑(わら)はん」といひあはせて、血をあやして、卒都 婆(そとば)によくぬりつけて、この男ども、帰(かへり)おりて、里のもの共(ども)に、「此(この)ふもとなる女の日ごとに峯(みね)にのぼりて卒都婆 (そとば)みるを、あやしさに問(と)へば、しかじかなんいへば、あすおどして、はしらせんとて、卒都婆(そとば)に血(ち)をぬりつるなり。さぞ崩(く づ)るらんものや」などいひ笑(わら)ふを里の者どもきき傳(つたへ)て、をこなる事のためしに引(ひき)、笑(わらひ)けり。
かくて、又のひ、女のぼりて見るに、卒都婆(そとば)に血(ち)のおほらかにつきたりければ、おんな、うち見(み)るままに、色をたがへて、倒(たう) れまろび、はしり帰(かへり)て、さけびいふやう、「この里(さと)の人々、とく逃(に)げのきて命生(い)きよ。この山はただいま崩(くづれ)て、深 (ふか)き海になりなんとす」とあまねく告(つ)げまはして、家に行(ゆ)きて子孫どもに家の具足(ぐそく)ども負(お)ほせ持(も)たせて、おのれも持 (も)ちて、手まどひして、里(さと)うつりしぬ。これを見(み)て、血つけし男ども手をうちて笑(わら)ひなどする程に、そのことともなく、さざめき、 ののしりあひたり。風の吹(ふき)くるか、いかづちのなるかと、思(おもひ)あやしむほどに、空もつつみやになりて、あさましくおそろしげにて、この山ゆ るぎたちにけり。「こはいかにこはいかに」とののしりあひたる程に、ただ崩(くづ)れに崩(くづ)れもてゆけば、「女はまことしけるものを」ばどひて逃 (に)げ、逃(に)げえたる者もあれども、親のゆくへもしらず、子をも失(うしな)ひ家の物の具(ぐ)一も失(うしな)はずして、かねて逃(に)げのき て、しづかにゐたりける。かくてこの山みな崩(くず)れて、ふかき海となりにければ、これをあざけり笑(わら)ひしものどもは、みな死にけり。
あさましきことなり。
適当役者の呟き
こわいですね。
卒塔婆:
そとば。現代日本だと、墓石の傍らの、細長い木に、ごにゃごにゃと戒名などを書き付けたものですが、もともとは、石の台座に、簡単な塔みたいな構造の建物のことみたいです。
要するに、石の塔くらいの認識で良いかなと思いました。
[7回]
PR