昔、吉野山の日蔵上人が、吉野の奥山で修行を続けていた時、
身の丈七尺、2メートルを超えるような大きな鬼に出会った。
全身は紺青色をして髪は火のように赤く、
首は細く胸の骨がことさら飛び出しており、目を怒らせ、
腹は膨らみ、脛は細いという奴であったが、
行者に出会うなり、手をこまねき、大いに泣き出した。
「これは、何をしようという鬼か」
と尋ねれば、鬼が涙にむせびながら言うには、
「我は4-5百年以前の、昔の人にござりますが、
ある者のため恨みを残し、今このような、鬼の姿となったのです。
願いのとおり仇敵を取り殺し、子はもちろん孫、曾孫、玄孫に至るまで残らず殺し尽くし、
今は殺すべき者もありませぬ。
この上は、彼らの生れ変った先も調べて、とり殺してやろうと思うのでござりますが、
次々と生れ変わる場所は、露ほども分らないため、殺すこと叶いませぬ。
瞋恚の、この怒りの炎はなお昔と同じように燃えても、怨敵の子孫は絶え果てて、
しかるに我ひとり、尽きもせぬ瞋恚の炎に身を焦がされ、
やる方のない苦痛を受け続けておる次第にござります。
あのような恨みの心を起こした以上は、極楽天上へ生まれることなどは叶いませぬが、
その上に今は、恨みを留めてこのような身となり、
無量億劫の苦痛を受け続けることを、どうしようもなく哀しく思うのでござります。
あの者のために恨みを残したのは、何と言っても、自分自身のためでした。
しかし、敵の子孫が絶え果てた後も、我が命は尽きることがありませぬ。
もし、かねてこうなることを知っていたのなら、
よもや、このような恨みを残すことはなかったはずにござります」
鬼はそのように語り、涙を流して限りなく泣き続けるうちに、
次第に頭から炎が燃え出して行くのである。
やがて鬼は山の奥へと、歩み入った。
その後、日蔵上人は、あわれに思い、
彼のため、罪を滅ぼすに足る、さまざまの仏事を行ったということである。
原文
日蔵上人吉野山にて鬼にあふ事
昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥におこなひありき給けるに、たけ七尺斗(ばかり)の鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、くび細く、むね骨は、ことにさしいでて、いらめき、腹ふくれて、脛は細く有けるが、此おこなひ人にあひて、手をつかねて、なくこと限なし。
「これはなにごとする鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申やう、「われは、此四五百年をすぎてのむかし人にて候しが、人のために恨をのこして、今はかゝる鬼の身となりて候。さてその敵をば、思のごとくに、とり殺してき。それが子、孫、ひこ、やしは子にいたるまで、のこりなくとり殺しはてて、今は殺すべき者なくなりぬ。されば、なほかれらが生れかはりまかる後までも知りて、とり殺さんと思候に、つぎつぎの生れ所、露もしらねば、取殺すべきやうなし。瞋恚の炎は、おなじやうに、燃ゆれども、敵の子孫はたえはてたり。我ひとり、つきせぬ瞋恚の炎に、もえこがれて、せんかたなき苦をのみうけ侍り。かゝる心を起さざらましかば、極楽天上にも生れなまし。殊に、恨みをとゞめて、かゝる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せんかたなくかなしく候。人のために恨をのこすは、しかしながら、我身のためにてこそありけれ。敵の子孫は盡きはてぬ。わが命はきはまりもなし。かねてこのやうを知らましかば、かゝる恨をば、のこさざらまし」といひつゞけて、涙をながして、泣く事かぎりなし。そのあひだに、うへより、炎やうやう燃えいでけり。さて山の奥ざまへ、あゆみいりけり。
さて日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪ほろぶべき事どもをし給けるとぞ。
適当訳者の呟き:
興味深いです。
日蔵上人:
にちぞう。道顕、また道賢。菅原道真を左遷した、醍醐天皇のころの僧侶だそうです。
役行者とは別系統、北野天神信仰とかかわる金峰山修験僧、らしいです。
「道賢上人冥途記」という記録によれば、彼は、菅原道真を左遷したからという理由で、地獄でしばかれる醍醐天皇を目撃したそうです。
延喜16(916)年、12歳で金峯山へ入って出家、塩と穀物を断つ修行を26年も行った後、(道真公の怨霊が暴れ回って)災厄続きの世の中のため、37日の無言断食の行をして、冥界の菅原道真公に逢った――そうです。
いらめき:
苛めく。苛立つ。
瞋恚:
しんい。もともとは仏教用語で、三毒・十悪の一。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。要するに、怒り狂った感情です。現代日本語ですね。
無量億劫:
むりょうおくごう。要するに、無量大数みたいな意味です。永遠、というよりそのまま「無量億劫」といったほうが強い気がしましたので、適当訳ではそのままです。
[12回]
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