今は昔。
柏原の帝こと桓武天皇の皇子の、さらに第五の御子に、
豊前の大君という人がいた。
位階は四位で、官職は刑部卿、大和守に任じられていた。
大君は世間のことをよく知っていて、
心ばえも素直、公務についても善悪をよく承知していた。
国司の任命時期にも、
ある国の守に空席が出て、そこを希望する人があれば、国の上下に応じて、
「その人は、その国の守に任じられるだろう。その人は、理由を述べても叶うまい」
というふうに国ごとについて話すのを、多くの人が聞いていた。
そうして除目の当日、この大君が口にされた推察が少しも外れることがなかったから、
「この大君の推察は、じつに賢明だ」
と評判になり、除目前には、大君の屋敷に大勢の人が集るのだった。
「任じられるであろう」
と言われた人は、手を合わせて喜び、
「任じられない」
と聞かされた人は、
「何ということを言う大君だ。賽の神を祭って、気狂いになったのだ」
と呟いて帰って行くのが常だった。
「この人が任じられるはずだ」
と言われていた国で、不意に、別人が任じられたりすると、
「悪い人事がされたものだ」
と世間では非難した。
そういうわけで、朝廷も、
「豊前の大君は、どのような除目だと言っているか」
というので、大君のもとへ親しく出入りする人へ、
「行って、尋ねて来い」
と命令したりしたという。
これは、田村の文徳天皇や、水の尾の清和天皇の
御時のことであったはずである。
原文
豊前王事
今は昔、柏原(かしはばら)の御門の御子の五の御子にて、豊前(とよさき)の大君といふ人ありけり。四位にて、司は刑部卿、大和守にてなん有ける。世の事を能しり、心ばへすなほにて、おほやけの御政をも、よきあしきよく知りて、除目のあらんとても、先、国のあたまあきたる、のぞむ人あるをも、国のほどにあてつゝ、「その人は、その国の守にぞなさるらん。その人は、道理たて望ともえならじ」など、国ごとにいひゐたりける事を、人聞きて、除目の朝に、この大君のおしはかりごとにいふ事は、露たがはねば、「この大君のおしはかり除目かしこし」といひて、除目のさきには、此大君の家にいき集ひてなん、「なりぬべし」といふ人は、手をすりてよろこび、「えならじ」といふを聞きつる人は、「なに事をいひをるふる大君ぞ。さえの神まつりて、くるふにこそあれ」など、つぶやきてなん帰ける。「かくなるべし」といふ人のならで、不慮に、異人なりたるをば、「あしくなされたり」となん、世にはそしりける。されば、大やけも、「豊前の大君は、いかゞ除目をば、いひける」となん、したしく候人には、「ゆきて問へ」となん仰られける。
これは、田村、水の尾などの御時になん在けるにや。
適当役者の呟き
あっさり。
柏原の御門:
桓武天皇。平安遷都の桓武天皇ですね。。。とwikipediaを見ていたら、桓武天皇のお母さんが、「高野新笠」という人だと出ました。
前回の山の蛇神、「高野」と無関係ですかね?
豊前の大君:
普通に検索に出てくる豊前王だと思うのですが、系図を見ると、豊前王は、
天武天皇-舎人親王-船親王-栄井王-豊前王
という系図になって、桓武天皇とは相当遠いです(桓武天皇は、天武天皇の兄・天智天皇の曾孫)。別人でしょうか?
田村、水の尾などの御時:
文徳天皇、清和天皇の別名。時代的には、ちょっと前に出てきた、
応天門の変のすこし前。
この当時は、二世から四世までの皇族に、夏と冬、朝廷から服を賜っていたそうで、その数が五、六百人にもなっていた模様。そこで五世の王たる豊前王は、「皇族、多すぎじゃね?」と建言して、節約させたようです。
(そしたらその後で、「おまえは五世王のくせに、四世までの王しか着られないはずの紫色を着ているじゃねえか」と指摘されたとか。嫌がらせですね)
さえの神まつりて、くるふにこそあれ:
賽の神=道祖神は、やっぱり扱いの低い神様です(参照:
道命阿闍梨読経し五條道祖神聴聞する事)。
[5回]
PR